波頭

束の間、淡く残ることについて

夢のおすそわけ - と影「寄添 you resew」について

と影さま

 

突然のお手紙失礼いたします。

展示のキャプションが手紙の体裁をとっていらっしゃったので、それに応えるように手紙として文章を書いています。

 

 

まず、ひとつ謝らせてください。まだ展示準備中だと丁重に頭を下げていらっしゃったのに「大丈夫です」とか何とか言って、展示を見はじめてしまい、ごめんなさい。「そうでしたか、では後で改めて来ますね」と言ってさらりと退室するべきでした。いままさに展示がつくられている状態で鑑賞するのもたのしそうだな、と自分勝手に思って気にせず見はじめてしまいました。

あまりにも申し訳ないので、少しでも展示の感想と思い出を書き綴って、それをと影さまの今後の活動の一助にしていただければと思い、この手紙を書いています。(そんなことを言いつつ、結局私が書き残しておきたいことを勝手に書いているに過ぎないかもしれません。)

 

 

展示を見おわって、等々力渓谷に向かってあるきながら、展示の感想とか疑問を同行者に一方的にぺらぺらと話していました。クレヨンで描いたという絵が特に素敵だったとか、あの水の音がし続けているすみっこの空間にずっと居たかったとか、どうして花束があいだに挿し挟まれていたんだろうとか、キャプションの文章になんとなく『海獣の子供』(五十嵐大介)の世界観を感じたとか、でも世界観ベースの展示は自分の制作とは真逆かもしれないとか。うーん、うーん、でも、でも、となにか掴みきれないものを感じていました。

私の話が途切れてしばらく経ったころ、同行者がゆっくりと思い出すように、空に浮かんでいることばを触るように、こんなことを話しはじめました。

「今日ここに来るまでの電車のなかで、窓から差してくる光を見ていました。なんてきれいなんだろう、美しい夢だな、って思ったんです。ほかのひとは、現実のことを夢だなんて言ったら、何それおかしいって笑うかもしれません。でも私は、美しい夢だ、って思ったんですね。さっき展示を見ていて、これはゆきのさんのみている夢なのかもしれない、ゆきのさんが見ている美しい夢を、こんなふうに作品にして展示して下さっているなら、素敵だなって。」

彼女はときどき、現実のなかで突然舞い降りてくるあたたかな瞬間を、光、夢、とシンプルに呼びあらわします。もちろん、「夢のような光景」「夢のような気持ち」というふうに現実を夢に喩える言い回しはありますが、彼女のばあい、現実を「美しい夢だ」と言い切るのです。この言い切り方に、彼女の現実の感じかた、さわりかたの具体性があります。夢のなかで蝶になっていたひとが「夢のなかの蝶のほうが本当の私かもしれない。いま見ている現実こそが夢かもしれない」と分からなくなってしまう説話がありますが、まさにそのように、現実と夢の分割線がほんとうにふわっと見えなくなる瞬間があるということです。そして、その境界がわからなくなる瞬間はたまらなく美しくて、感情がどんどん溢れ出て、からだが満たされていく心地だけがあると。

このはなしを聞きながら、私はなるほどと得心しつつ、なんだか大切なことを思い出した気がしました。

ひとつの作品が、そのひとのみた夢かもしれないということ。だれかの夢をみることはできなくても、こんな夢をみていたのかもと想像することはできる。

 

 

と影さまの展示では、絵と写真がいろいろなところに貼られていて、手書きの文章がその間を縫っていて、目線を落とせばそこにピアスやイヤリングがそっと置かれていました。ほかにも花束や木製のベンチと什器、布を被った(水音のする)物体がありました。このなかで私がもっとも見慣れなかったのはアクセサリーです。絵と写真と文章が織り混ざったマルチメディアな展示はよくありますが、そこにアクセサリーが重なる展示は見たことがなかった。絵や写真や文章が「見られる」「読まれる」ことを想定しているのに対して、アクセサリーや工芸は「身につけられる」「使われる」ことを想定している点で、(今回の展示においては)かなり特殊なものに思えました。秘めているものが違うように思いました。

絵や写真や文章が、ひとつの静かに冴え渡った世界を立ち上げていることはよくわかりました。しかし、ピアスやイヤリングはむしろその世界のほうから生み出された惑星のようで、しかもあと一歩のところで「未完成」という印象を受けました。もちろんそれは、作品の完成度が低いとかそういうことではありません。展示されただけでは終わらないというか、誰かに身につけられることを待っている。ここに根本的におおきな余白がある。

鑑賞者はもしかしたら、ピアスやイヤリングに触れて、身につけることで、作家の世界にわずかでも分け入り、あるいはその一部を分けてもらうことができるのかもしれません。キャプションのなかに、愛犬を亡くしたことを物語る文章がありました。その文章を受け取った私は、木のにおいに満ちた展示空間をあるきながら、その経験のやりきれなさをおもって、でも光のような絵画と写真に慰められて、視線を落とした先にあるうつくしい装飾品に無性に恋い焦がれるような気持ちになりました。この透明なプロセスは、展示タイトルにあるように、自分のものではない記憶を縫い直す(resew)こと、作家から分けていただいた世界を鑑賞者が受け取り、自分の世界の一部として積極的に編み直すことなのかもしれません。

 

 

ひとつの作品がそのひとの夢であるなら、展示や発表は微かな光のおすそわけ、夢のおすそわけであるのだろうと思います。

難しい細かい話はとりあえずはどうでもよくて、自分のみた夢の手触りを制作に乗せること、衒わずにおすそわけすること、少しここに立ち返って制作をやってみたいと思っています。

 

 

おまけです。

よく調べずに行った等々力渓谷は入り口がわからず、通行止めに阻まれて進めなかったりしましたが、とりあえず橋を渡ったり、龍のくちから零れる滝を見たり、等々力不動尊にご挨拶したり、たのしく歩けました。

同行者がちいさな蕾のついた枝をひろったので、私は謎の殻をひろいました。

おすそわけします。

 

それでは、またどこかでお会いできたら嬉しいです。

素敵な展示をありがとうございました。

 

滴々(たらたら) 高倉悠樹

アート・インクルージョンという場において - メモ

概要

私がアート・インクルージョン(Ai)に参加*1したのは2022年8月、インドネシアに行って帰って来てからすぐのことだった。気が付けば1年と3ヶ月、どたばたと目まぐるしく過ぎていった。色々なことがあって、今月15日付で私はパートナー*2ではなくなった。

即興音楽ユニット「NO is...」初参加(2022年10月)

もともと、2021年から父(新聞記者)がAiの取材をしていたので、父が取材している場所でその息子が職員として働く、という稀有な状況が出来上がった。私がスタッフ(通所者)のつくりだした作品を撮影してアーカイブをつくっているとき、父が横で同じように作品を撮影していることもあった。こんな変なことはもう今後起こらないと思う。

父の連載は2023年1月にはじまった。私は、父から職員宛に送られてくる草稿を読んで「ここに違和感がある」などと口を出したり、その文章を出発点として「Aiの面白さはどこにあるのか」「Aiについて書くとはどういうことか」などと色々めんどくさい議論をふっかけたりした。父はその議論や指摘を(新聞記事としては奇妙なほど)おおらかに受け入れ、記事に反映させ、考えを深めていた。私にとっても、自身が身を置き、生活や制作をともにするAiという場所をどのように考えているのか、自分はどういうスタンスなのか、はじめて言語化していく機会になった。

パートナーとしてAiではたらく、新聞記者としてAiの記事をかく、というそれぞれの出来事の裏側で起きていたこれらのコミュニケーションは、それ自体がAiについての批判行為であり、制作行為であったと思う。本稿は、主に父とのLINEでのやり取りを復元しアーカイブすることで、私(と父)がAiについてどのような問題を提起し、どのようにそれを考えていたのかを改めて可視化し、共有しようとするものである。

Aiに入ってすぐの頃、門脇さんから「(お手伝いという意識ではなく)自分の事として考えてほしい」と言われたのを覚えている。私はこの「自分事」とか「他人事」ということばがとても苦手だ。出来事が自分事なのか他人事なのか、そんな簡単に、意識的に、単純に切り分けられることではないと思っている。言ってしまえば、すべてが他人事だし、自分事でもある。ただ、最初は無知であろうが無関心であろうがそんなことはどうでも良く、「とりあえずやってみよう」「そばにいてみよう」と付き合い続けているうちに、だんだんとそこに巻き込まれる、ということは起きる。そっちの方が実感として強い。Aiについても同様で、アーティストでもなければ福祉の人間でもない私は、いつも通り、遠いところからだんだんといつの間にかAiのなかに、アートや福祉の現場に引き込まれていった。Aiのアーティストの制作活動やひとりひとりの人間(性格や障害や悩みや楽しさなどすべて)にぐっと掴まれて、少しずつ彼らやその場所に出会っていくプロセスのなかで、父と繰り返してきた対話は重要な意味を持っていたと思う。

 

 

2022/06/25 フリージャズじゃん…

ボランティアとして2022年6月のどんどこ市などに参加したのち、この日初めて、Aiオンラインライブの収録を見に行く。トークのなかで門脇さんが流した「Katzen Studio*3」の音楽を聴いて(下動画4:14:40~)衝撃をうけ、その場で興奮気味に父にLINEする。

 かっつんさん、やばすぎるんだけど…

フリージャズじゃん…

 

 笑

 

 超かっこいい

 

 演奏してる姿がいいんだよ

 

2022/06/27 要約したとたんに何か違くなる

私が友人の文章を「要約を拒まれている」と評したことをきっかけに、二人で文章や作品などにおける「わからないこと」「要約できないこと」について話す。

 つくばから仙台に戻って来て1年間、ほとんど毎週どっかのギャラリーの展示を見に行って、表現者や関係者と話をしていたんだけど、結局みんな、日常言語では説明しきれない余剰のような「断片的なもの」の無視できなさ(リンギス*4の言う命令?)に、どうにかこうにか真正面から向き合って、何年もかけて何か自分なりの文体をとって表現されていく、その過程を生きているようだった。「わかりやすさ」に向かって要約したとたんに何か違くなる微妙なものを、わからないまま描き起こそうとする所作みたいな。

父の今までの連載の文章にもそれを感じるわけだけど。

 

 わからなさは、どこかに自分の可能性(鶴見俊輔のいう「輪郭」)を拡げるという予感があるから、気にとめる。気になる。本なら手元においておきたくなる。

とにかく今は『利他とは何か』の残りを読み、『反アート入門』(椹木野衣)を読破して、アート・インクルージョンにシフトしていかなくては。

 

2022/09/05 でも願わくばあのカオスな面白さを伝えたいねー

父がAiの記事を書くための「下調べ」として読んでいるアート関係の本を何冊か教えてくれる。それに応えるように、私も自分の関心のある本を何冊か紹介する。

 この本を読んで、なるほど、「パフォーマティヴィティ」と「ワークインプログレス(川俣正)」は自分のやりたい/やってしまう制作の基本的な要素だな、と思った。

さっきチラ見せした「アートベースリサーチ」*5はまだよく分らんが、Aiを語るための新たな視角、という可能性を超えて、そもそも「経験を表現する」ということへの態度それじたいを更新してしまう可能性をもつのではないか、という予感。とはいえ、さっき言ったような「これがアカデミズムの本質的なところとどのように調和するのか?」というひっかかりもあって、まだなんとも言えない感じもある。

 

 Ai・・・ああ、こういう場あるよね、素敵じゃん、と瞬時に納得されてしまうような記事には、今でもできるのだろうけどね。でも願わくばあのカオスな面白さを伝えたいねー。

俺はいまそのカオスぶりを10回くらいにぶった切れるのか、その程度じゃ足りないのか、落としどころを延々悩んでいる感じかな。

 

 なんかそういう記事は何回か読んだ気がするよ。門脇さんたちの話を聞いてその理念を書き写しつつ、みたいな。まちづくりとか福祉に関心がある人の消費の対象にしかならない感じの。

カオスはどうせ綺麗にまとまらないので、長引かせてストーリーめかせるよりも断片として置いた方が衝撃を産むと思う。なんだったんだ、あの連載…という。

 

 それは最初の企画書の段階で通らないかもな。

 

 アイちゃんの元記事を読んでないけど、『アイちゃんのいる教室』(偕成社)は「えほん」(というメディア、というより文体)であることが絶妙だった。説明的なところがあっても、失速してつまらなくならないでちゃんと内容に組み込まれている感じが。こりゃ今回も記事はあきらめて、別の文体を…(なんつって)

ところで、父がこんなに書き悩んでいるのははじめて見たかもしれない。

 

 そうかもね。成長ととらえたいね。

 

 あくまで「記事」にする、という制約があるのはチャレンジングだし、スリリングですね。

 

 取材すればするほど素材が増えて最終形が分からなくなっていくからね。まだ先が長い気がする。

 

2022/10/22 かっつんの絵はなんでああなのか

直接会ったときに父が「(アール・ブリュットについての本に出てきた)ドゥルーズのはなしは最初まったくピンとこなかったが、Ai理事の村上先生にインタビューしたあと、急に分かった」というような話(※後で補足)をしていたので、私が「Aiのカオスぶりや制作を分析する道具としては、哲学や美学における概念(化)は使えないのではないか」みたいな違和感を言明したあとの会話。

プロセスの内部にどんどん入っていく(パートナー/制作者として関わる)ことにこだわって言葉を脱ぎ去ろうとする私と、自分の疑問を考えることにこだわってそれでもなんとか読者に伝わる言葉を探そうとする父。ある意味、二人の立場(スタンス)の違いが明確化された瞬間だった。

 さっきはめっちゃイチャモンつけてすみませんでした。

ドゥルーズ研究の小倉さんのなんかのレジュメ、ネットで見つけましたので送ります(※リンク切れ)。すごくわかりやすいです。

『差異と反復』では現働的・潜在的・可能的等、といくつかの概念が関数みたいに出てくるらしい。ドゥルーズの絶筆は「現働的なものと潜在的なもの」らしく、さっき父は「可能的なもの」を科学とか、と例えていたが、小倉さんは「現働的=科学」「潜在的=哲学」みたいな対比を出していたり。

 

 まずいな。読む本が連載間近でオーバーフローしはじめた。

担わなければいけない肉?身体論かな。

 

 メルロ・ポンティしか思い浮かばない。

 

 明日丸善行ってくるか

 

 

さっき紹介したこの文章、やっぱり「プロセスにつきあう」というところがすごく気になっている。(ドゥルーズ風に言えば潜在的なものが現実化するプロセス、とでも言うのだろうか)

赤井沢で買った事務用品を支持体にしてマーカーを走らせるかっつん

かっつんの即興的なマーカーのうごきを間近でみて、はじめは赤井沢の企画*6のために描いてもらっていたけど、だんだん描き方のなかに線描だけじゃなくて点描が重要な役割を果たしていることをみて驚いたり、そのダイナミックな点描がピタッと一時中断されて俺の座っていた椅子をひっくり返しに来る意識のうごきを追ってみたり、つくりおわったものにもう何の執着も関心もなく俺が持って行って何かに貼り付けようが加工しようが気にしないことに気付いたり、それで、よしじゃあ俺も即興的に(でたらめに?)絵を貼り付けてみよう、とかっつんの制作プロセスを(制作物を、ではない)すぐそばで模倣していくかんじ

アウトサイドとか障害者とかアールブリュットとか、もうアートという線引きさえもその制作のうちにはなくて、ただ「つくっている」という場が生まれてしまい、そのなかに誰かと一緒に居る、という次元

赤井沢の企画では、ふつうの仕事だったら「店の目立つところ(柱)に貼るんだから綺麗にやらなきゃ」と思うところ、というか俺なんかビビリだから店の人になんか言われたらどうしよう…とか思ってたのだが、この制作の場においてはそんなことは関係なく、一心不乱にわき目も振らずプリンター横のPCが置いてあるスペースでひたすらみんなが描いてくれた絵に糊をつけて模造紙にペタペタ貼っていくだけで、その瞬間が終わって完成したとたん、もうどうでも良くなってしまい(笑)

かとおもえば、赤井沢の柱に実際に貼っていく作業でまた熱気が戻って来て、ほかのお客さんとか店長の反応とか、またどうでも良くなった。やってはいけないことをやっている、怪しい悦びがあって笑

嬉々として設営をおこなう私

”青い沢”(一部分) 2022 事務用品,油性マーカー,ミクストメディア

つまり、制作という次元においては「つくっている」場の生成プロセスのみが重要で、そこでは『ひきこもり臨床論としての美術批評』で言うところの「境界線上での分節の踏ん張り」が起きているのでは。でも、ひとたび完成してしまうと、その完成品を作品としてみて、いろいろな線引きをする認識枠組というか、割と常識的な次元の眼が戻ってきてしまう。

赤井沢に貼り終わるまでは何も考えていなかったのに、貼り終わったあとに「やば(笑)」って面白くなってから「これは怒られるのでは」と怖くなった。「これ大丈夫か?」という大丈夫/大丈夫じゃないの線引きが戻って来た。

 

 インサイダーとアウトサイダーの線引きを否定する岡崎さん(岡崎乾二郎)は、アールブリュットというジャンルの否定論者として、さっき言った本*7に登場する。やっぱ気になるのは、アールブリュットとかアウトサイダーの定義論ではなく、やっぱりかっつんの絵はなんでああなのか。

さっきの会話で悠樹は「二元論に収斂できない」と言っていたけど、さっきの説明が拙すぎたけど、二元論的な話ではない予感はする。小倉さんの言う「哲学と科学にはできない、芸術にだけ可能な特権的な闘い」(レジュメp13)。これの本質的なところを理解したいんだよね。

連載が終わったあと、父から次のようなメールが届いた。上のやりとりを補足して、当時の問題意識を簡潔に説明しなおしている。(引用文中の傍線強調は引用者。)

 アート・インクルージョンの人たち、たとえば颯真さんのお堂づくりを見て感じる驚きの正体は何なのか、その驚きを記事の中で読み手が共有できる言葉で伝えられないかという発想があった。下調べの段階で、斎藤環さんがドゥルーズの『差異と反復』をかみ砕いて説明する中で登場した固有性VS匿名性という考え方が印象に残っていた(が、意味はよく分からなかった)。
 斎藤氏は例えを出している。
①ある少年が自殺の練習と称して、幼児をマンションの屋上から突き落とすという事件
②私の妻が癌になるという事件
 どちらも衝撃的だが、①は私自身を含む人間一般の潜在性として、私を脅かさずにはいられない。つまり、私がそういう行動を起こし得る可能性がある。②は私を嘆き悲しませるが、妻の癌は私の可能性とは別個のものであるゆえに、①と同様の切迫性は持ちえない。
 これを斎藤氏は①=固有性②=匿名性と捉え直して、アート作品が「私を揺さぶりうるとすれば、そこに秘められた潜在性の強度、それを私の内側にも見いだすことによってということになる。作家の固有性が我々という個人の固有性に影響を及ぼす」。一方で、アールブリュットの作品は、通常の作品と違って、「まぎれもない固有性を帯びているが、ふとしたきっかけで匿名性のほうに溶解していきそうな気配をはらんでいる。アールブリュット作品は、個性がありながらも、見方によってはどれもこれも似たり寄ったりに見えなくもない」。匿名性と固有性の間に宙づりになっている、という言い方をしている。

 記事の題材で障害のある人や病気の人を取り上げるとき、「心が揺さぶられた」「共感した」という反応と同時に、「でも自分とは違う別世界の話だけど」と読み手の個別事情とは切り離して受け止められることが多く、どうすれば自分の世界の延長として感じてもらえるのか、ここ最近よく考えていた。その自分の関心事とつながる論点だったので、固有性VS匿名性のくだりが読後印象に残っていたのかも、と思う。村上先生のどの言葉からそのとき何をひらめいたのかは、今となっては全く覚えていない。Aiの連載を終えた今はそもそもこの「自分の世界の延長」という言い方自体に懐疑的だけど、どう受け止めてもらうかという問題意識としては今もある。

Aiの表現者たちが日々積み重ねている反復的な制作のかずかずが、なぜこんなにも面白いのか、どうしてひとがここまで圧倒され立ち止まるのか、これは私もまったく同じように抱えている問題意識である。しかし、それを考えようとするとかんたんに言葉を使えなくなる。三文字や四文字の概念は、目の前で繰り広げられているまったく掴みどころのない彼らの制作の湧き出しについて踏み込むには、立派すぎる。次元の違う切れ味を持っている。アート、障害者、アールブリュット、固有性。抽象的な言葉は暑くるしいほど主張的で、本当によく切れる。それは切断的なのだ。

私は、暖房の効いた部屋で上着を脱ぎ去るように、抽象的な言葉をどんどん投げ捨ててしまいたくなる。ただ彼らの、制作のそばにいて、もっと具体的な表現が降りてくるのを暢気に待ってみたくなる。ここに、父と私の感受したものの違い、それぞれの立場(やらなければならないこと)の違い、それぞれの態度の違いが表れている。

父(の書く記事)は、他者に開かれている。書くとは、言語化の難しいことでもなんとか共有可能なかたちに落とし込んで、誰かに読んでもらうことなのだ。それに対して、私はたまたま一緒にいた誰か(の制作)の計り知れなさというか、「制作せずには居られない」という身体の火照りや言い淀み、表現が生まれてくるときの感触を、そのひとの代わりにちょっとだけ言い換えて、ぽん、と無造作に置いて行こうとしている。限りなく無責任で、読者をほとんど想定していない。

この態度の違いは今後の対話でさらに明らかになっていく。そして、私たちの対話は、お互いの態度の違いをちゃんと理解していく過程でもあったように思う。

 

2023/01/23 いつの間にか誰かを排除していたかもしれない

この日、ついに父の連載がはじまる。

 

 門脇さんがツイートしています。

石巻支部の高倉記者が2年近くにわたり、もう取材をしに来ているのかアートをしに来ているのかわからない状態になるまでアート・インクルージョンに通ってまとめあげた渾身の記事であり、ときおりお休みをはさみながら、なるべくカラーの日を選んでの掲載とのこと。

私の感覚ではもうほとんど「作品」と言っていい気がします。逆に言えば、そうしたものを生み出す場こそが、ここがある意義なのだろうなと思います。

 

 異議を挟む余地のないつぶやきです。自分でも記事とは思えん。

楽楽楽文化祭WSの「青葉ジョー」にも通じるなと思った。オープンにしてみんなでわちゃわちゃ継ぎ足したり壊したりして作っていく過程が。

参加した子どもが描いた絵を青葉ジョーに付け加える私

”青葉ジョー” 2023 段ボール,マーカー,アクリル絵の具ほか

 もう何度も話が出ているけど、いままでAiにさっと訪れ、ちょっとインタビューして、わかりやすいところ、美しいところばかりを掬い取って、あっという間に記事になる取材ばかりだったのが、もはやAiの内部であらゆるイベントに出て行動を共にして(参与観察?)時に制作にもかかわりながらものを書いているひとが現れたのは、Aiにとっても革命的だったのではないかと思う。

そして、その先を考えるならば、やっぱりちょっと外側からやってきてボランティア的に参加したり観客的に参加したりその時々にプラダンに絵を描いたりする程度では見えてこない、インクルージョンの根本的なむずかしさ(途方もなさ)が、これからどれくらい書かれていくのだろうか、ということばかり考えてしまう。(ここで書き手は一人に限定していない)

そういえば、赤井沢の柱に貼り付けた作品(青い沢)を、アートタウンせんだいのWSのなかでどうしようかずっと考えていて、いろいろ悩みながら、結局大手門にただ貼り付けて、くぐれるようにしようと思った。

最初は位置を下げて、くぐらないと入れないようにしようと思った。子どもの視点ならバーッと入っていけるけど、大人はくぐらないと入れない。くぐる、という動きを引き出したり、子どもの視界じゃないと部屋がどうなっているか覗けないようにしようと思って。

そうしたら、門脇さんから「これ、入口だめになってるよね」みたいなことを言われた。だめになってる、だったか、つぶれてる、だったか、忘れた。

門脇さんに言われて、自分の制作がある意味で排他的なのかも、と思った。普通に入りづらいし、入口から全体が見渡せなくてよく分からないから帰る人も居たかもしれないな、と。壁、バリケードというか、拒否みたいなものに見えるかもしれない。

自分はすごく自然に、いつもの態度で制作をしていたんだけど、あの場ではいつの間にか誰かを排除していたかもしれない。大げさだけど。

例えば、かっつんのイタズラや大輝さんの行動を嫌がったりするひともいる。そのことと重なった。本人は自然体でただ生きているだけなんだけど、ほかのひとにとっては不快だったり、よく理解できなくて怖かったりする。

あなたもそこに居て良い、という場であろうとすることが、実際的に可能になるためには、その人がその場にいることそのものが起こす影響を具体的にどうしていくか、どう受け止めていくか、という個別的な問題が当然生まれる。それは、ちょっとやそっと、その場にいただけでは分からない。俺もパートナーとして関わってみて、ようやく見えてきたけど、どんどこ市・楽楽楽文化祭みたいな一日限りのイベントに参加したぐらいでは可視化されづらい。それこそ「素晴らしい場所だ」ということで終わってしまうなーと。

 

父 Aiにいて自分の中の思い込みや普段は潜めている排他性が浮かび上がってくる。そういうところに突破口があるんだよね。佐々木さんが統也さんにケチと言われた瞬間とかね。

 みんなと県美術館に行ったときのこと。発達障害のある統也さん(22)が彫刻作品に触りそうになり、とっさに「触っちゃダメ」と止めたら、「なんでダメなの。けち!」と言われた。

 貴重なものは触らないのがマナーだと思い込んでいる自分がいる。ほんとだ、確かにけちだなあ。笑ってしまった。

([壁をなくす/包み込む](9)常識を軽やかに覆す)

誰かといれば必ず摩擦が生まれる。それとうまく付き合うやり方を探っていく。なんかね、当たり前のことだよねってなりがちなんだよね。新聞記事にそういう言葉でかいちゃうと。具体的な人やエピソードで、全く無関係の人にどうやって気付いてもらうか。難しくてわからないね。

Ai内部のこと(摩擦の話)は、前半は、かっつんの話にちらっと出てくるくらいかな。4回目の「Aiの内と外」の話も、あまり書かれることのないシリアス回で、一つの山なんだけど

 

 でも、そこがやっぱり核心的なんじゃないか、という直感です。

 

 それが核心的なのは確かで、アイちゃんのシリーズから一貫して書いているテーマなので。見え方は少し違うかもしれないけど、大輝さんの回はクライマックスになると思う。まだ一行も書いていないけど

 

 楽しみですほんとに

 

 

2023/01/25 事が起きること自体を是とする基本姿勢

 今日、男子会(Aiのプログラム)で、新聞の連載がはじまりましたねーという話になったので、スマホでかっつんに記事を見せたら、写真のなかに自分が(いたずらして)倒した椅子を見つけて弾けるように笑ってた。

かっつんがひっくり返した椅子

 

 おれが直接見せたときも爆笑してたしな

もう一回って求められて2回見せた

 

 素晴らしい話ですね…

 

 本当はかっつんに俺も「(いたずらを)嫌がる人もいるんだよ」と言うべきなのか。でも、他のひとが嫌がって怒ったとき、興味深かったのは、むしろブツブツ言ってるそのひとの方に「ちゃんと言葉で気持ちを伝えなよ」と言っていたパートナーさんたち。事を起こすかっつんは叱られる対象ではない。

 

 いろんな人が既にかっつんに「嫌がる人もいる」とは言っているけど、それでも基本的にパートナーは「されている側」に忠告したり助言したりする。俺もかっつんにパンチされたとき「エスカレートしちゃうので、ちゃんと言ってくださいね」と言われた。

 

 事が起きること自体を是とする基本姿勢がすごいAiチックなんだよね

それも表現活動であり、Aiの仕事への参加のしかたであると。

 

2023/02/03 何とかして入れたい

 今日のかっつんの記事すごく良いですね

朝からAiでおつかいを頼まれて、コンビニをはしごして新聞を買ってきました。

 

 かっつんの回は初稿の段階で納得いくように書けたんだけど

 

 何度読んでも良いです。

彩子さんの記事(第11回)は、L47「言葉に翻弄されない分」の「翻弄」にすこし違和感。L67「言葉で語ることの限界」はすこし唐突な印象を受けました(むしろ「ノンバーバルコミュニケーションの可能性」みたいなポジティヴな方向なのでは、と)

L73からの、刺繍をお手本通りにつくって𠮟られたはなしは、どうして叱られたのかが一読して分かりづらかったです

 

 おおありがとう。そのあたりが全然しっくりこないので参考になる

L67に関しては、考えてみたら言葉が邪魔になってることもあるよね、というひとくだりは何とかして入れたい。でもそのこだわりが文章の流れを妨げている気がしている。

いったん放置します。

 

2023/02/04 アート・インクルージョンという場において

Aiで会ったときに、第8回の原稿の最後のところはあれで良いのか、みたいな話をした。そのあとの会話。

 さっき大輝さん回の最後のところの話、深く聞かなかったけど、わかりにくい部分がある?それとも結論の中身的な話?

 

 「跳びはねる表現者は教えてくれている」という書き方に違和感があった。表現として

結論に異論はないのだけど、大輝さんが教えてくれている、は大袈裟というか、むしろ父(という侵入者)がそれを汲み取っているというか、いや、その能動も受動も本当はしっくり来なくて、大輝さんの存在がアート・インクルージョンという場においてそういった「教え」に結晶しているのかな

細かいし、表現のニュアンスの問題だし、伝わらなかったら説得力は薄れるし、そのままでも良いのかも

 

 さすがやっぱり引っかかっているところを的確に突いてくるねぇ…

あの深野さんイズム(と門脇さん)が染み込んだ空間自体が、醸し出して見せてくれる、という感じだよね。そういう意味では表現上大輝さんにフィーチャーしすぎなんだけど。ここは引き続き掲載まで考えます。

 

 そうそう

 

 大輝さんは宝物、という唐突な中盤の言葉遣いと呼応していて、ここは大輝さんで終わるのが形として整うんだよなー。でも整う必要が果たしてあるのかどうか、だな

この議論を経て、最終的な完成原稿では「跳びはねる表現者その仲間たちは教えてくれている」に直されていた。

 大輝さんに限った話ではない。人がこれだけ集まれば、そりが合う、合わないは当然ある。仲たがいもあちこちで起きる。インクルージョンが調和のとれた優しい空間だというのは都合のいい幻想にすぎないと、取材を重ねると見えてくる。

 それでも、ルールで自由を縛るのではなく、衝突すればそのつど解決を探っていく。寛容さとはそうやって苦しみながら守り貫くものだと、跳びはねる表現者とその仲間たちは教えてくれている。

 

2023/02/27 「実際よりいい人そう」

 門脇さん回(第14回)読んで意見聞かせてね。いま送ったので。

 

 ひっかかるところいくつかあるのだが、いま気仙沼アート小の文章を書いていて手が離せません。今日の夜中になると思います。

 

 ありがとう

門脇さんとさっき電話で話して、いくつかヒントらしきものはあったけど、解決策は見いだせず。

深野さんからは「実際より私も門脇さんもいい人そう」と言われて、美化補正を直すかな、とぼんやり思ったところ。いずれにしても、ひとつ前のバージョンがあって(われわれは分かり合えない存在云々の結論部を入れる前の形)、それよりはマシになって、内容的には混沌としてしまった。という感じ。あしたの午前中に石巻で少し考えてから、午後Aiに寄ってまたヒントをもらおうかと思ったりしてる

 

 では、あしたもAiにいるので、そのときに話します

 

2023/01/27 終わらないし、そもそも進んでいるのかどうかもわからない

大学時代からの親友・タコのマリネくんが「高倉の活動を直接見たい」と言って仙台まで来てくれた。ちょうど楽楽楽文化祭(主催・太白区文化センター、共催・アート・インクルージョン、ほっぷの森)のタイミングだったので、彼をWS「アートタウンせんだい」の会場に呼んでAiのアーティストやパートナーたちを紹介した。ワークショップやステージのめちゃくちゃな熱気を一身に感じて、つくばに帰っていった。

大学で読んだ書籍の名前などを模造紙に書いて、制作に参加するタコのマリネ君

その後、父の連載記事をタコのマリネくんに転送し、感想を語り合った。

 高倉父によるアートインクルージョン連載、続々と新作が出ています。

タコのマリネくんも楽楽楽文化祭で出会った、お堂の石川法然さんについての記事です。

中盤に「アール・ブリュット」が出てくる。ここまではっきりと、参考にした本の内容が出てくるのは(父の記事としては)珍しい気がしている。いつもは背景に微かに鳴っている感じで、あんまり直接は言及されないんだけど。それぐらい避けては通れない説明ということか。

 

タコのマリネ(以下、タコ) ありがとう。

確かにアール・ブリュットが出てくるのだけど、「颯真さんの活動(ひいてはアート・インクルージョンそのもの)こそがアール・ブリュットなんだ」みたいに直言しないところに、高倉のお父さんの文体があると思いました。既存の概念に当て嵌めて固着化させて解釈して、わかったような気になることを踏みとどまろうとする強い意思のようなものも揺曳している気が。あくまで「アール・ブリュットと一部分で重なるところもある」という程度の緩やかな連想に留めているバランス感覚が単純にすごいなと。

 

 既存の美学概念が包摂できなかった(しなかった)障害者のアートや非専門家アートを「美的なもの」として包摂しようとするものだと、つまり分析者の都合上うまれたものとしてアール・ブリュットを捉えていたから、個人的にはあんまり重要なことばとして見ていなかったんだけど、むしろ「新しいまなざし」という門脇さん的なアート観に美をまず解放して、そのひとの「世界(視点)」のなかを垣間見るための人間理解的な概念として捉えているところに、なるほど、そうだったのか、と思った。

 

タコ 「美的なもの」への回収にではなく、人間理解のきっかけとしてアール・ブリュットを考える、なるほど。例えば「動物」とか「子供」を論じるときにも、これら(の他者性)が「私たちに新たな視野を開いてくれる」みたいな功利性に帰着させられることに何となく違和感があった。そうした周縁にあるとされるものが理解ではなくて、いつの間にか「私たち」の話にすりかわっている違和感。

そこには「(新たな視点をも開いてくれる)マイノリティ/(新たな視点を受け取る)マジョリティ」という二元論が温存されていて、根本的な差別構造は解体されていないよなぁ、というモヤモヤがあったわけだけど。人間理解という考え方で捉えるならば、「私」と「あなた」という純粋な二者関係で相手と関わる仕方が見えてくるよね。

 

 一方で、「理解」ということばは不十分だとも感じる。あと、意図しないものであるというアール・ブリュットの説明のあとに、後半「制作した当人なりの意図」ということばが出てくるちぐはぐさに、やはり「意図」ということばも脱ぎ去りたいと思う。

 

タコ 何をしたら「理解」したことになるのか、その辺りの具体性も見たいと思った。ことばに頼らない仕方も求められてくるのだろうか。

 

私 理解するって何なのか、それはまさにこの文章で示されているというか、この文章そのもの、さらに言えば父の取材・執筆行為の実践とこの文章の向こう側にいる門脇さんやAiのひとたちの実践のもと、ある程度示されているのでは、と思うけど。

俺が言いたいのは、その実践は「理解」ということばで括り出すのは惜しいというか、もっと別のことなのでは、というか、確かに理解ではあるかもしれないが、理解でなくもあるのではないか、というか…

一方で、門脇さんは「無理にわからなくても良いのではないか」とも言う。というか、「理解した」という意識自体を危険視することもある。

 2023年4月の開所とほぼ同時期にアート・インクルージョン・ファクトリーに通い始めたみちかは、ほぼ一貫してアイドルをテーマとした表現活動を行ってきました。好きなアイドルグループの特定の人、あるいはグループのメンバー全員とデートしている絵や、ファンレター(ラブレター)を繰り返し描いてきました。本展の作品の中心的な役割を果たしているのはそれらの集大成とも言える数千枚にのぼるファンレターです。

 好きなアイドルやアイドルグループのことを思い、一枚一枚したためられたそれらは見るものを圧倒します。その純粋さに打たれる人もいるでしょうし、その限りない欲望にあきれる人もいることでしょう。いずれにせよそこにあるものを、「はかり知れなさ」と言うことができるのではないでしょうか。私は本展のねらいはそれを示すことにあると考えています。

 世の中は「はかり知れない」ものに満ちています。そしてそれをわかりましょう、わかりあいましょうと言います。わかりあうことははじめから目標であったり、素晴らしいことであったりします。しかし本当にそうなのでしょうか。というよりそもそもわかるとか、わかりあうというのはいったい何を意味しているのでしょうか。

みちか個展「あしたもがんばれます。」会場風景(引用元)
AiGallery 2019.7.8.-7.19.

 たとえばこの膨大なファンレターを見て、彼女をアイドルを夢見る純粋な心をもった女性だと理解することは、彼女をそうした枠にはめこむことで片付けようとしていることにほかならないのかもしれません。わかる、理解するということが、自分が理解したいように理解したということに過ぎないのではないか。私にはみちかがそうしたことを語りかけてくるように思えてなりません。

 障がい者や外国人、芸術家、こども、動物、自然。わからないという言葉はよく不安とともに語られます。しかしなぜわからないことが不安なのでしょうか。たとえば現在たくさんの外国人が日本に働きに来ていて、共生社会をつくりましょうという。その一方で外国人を警戒する言葉を耳にします。しかし日本人どうしと言われる人なら本当にわかりあえていると言えるのでしょうか。また、自然災害は人間には理解しがたいもののひとつでしょう。しかしそれにすら意味を見出し、そこから何かを学び、導き出し、手なずけようとします。

 しかし、わからないもの、わかりあえないもの、自分とは別の存在は、わからないから、わかりあえないからこそ、大切な存在なのではないでしょうか。それは理解できないものとして投げ出すことではもちろんありません。それは結局わかったと言って、自分がわかりたいものにしてしまうのとなんらかわりません。わからないこと、理解できないこととともに生きることはできないのでしょうか。それをまだ見ぬ希望や未来と思うことはできないのでしょうか。

「はかり知れなさ」とともに歩むこと。それがこのファンレター、みちかからのメッセージではないかと私は思うのです。

(みちか個展「あしたもがんばれます。」キュレーターズコメントより

傍線強調は引用者)

「アートとはひとを理解することだ」と言いながら、「わからないこととともに生きる」と言う、この表現の混乱は倒錯でも破綻でもなくて、みちかさんや颯真さんの制作に向き合ったときの意識の絡まりというか、言いがたさを端的にあらわしていると思う。「理解」ということばで語ろうとすることの限界として。

「理解」という言葉を使って無理やり言い表すなら、「理解できない、ということを理解する」というかたちで言えば少しは近いのかもしれないけど、どうしても表現としては混乱してしまう。(書きながら、エマニュエル・レヴィナスがちらついた)

「理解できない、ということを理解する」的な門脇さんの具体的実践は「制作」であって、それがどういうものか、『いつの間にか踏み越える/戸惑いながら立ち止まる』という文章に書いたことがある。

この文章では「理解する」ということばを解体しつつ、苦し紛れに「理解し直す」と書いた。

「あぁ、そういえばさっき門脇さんが『(私にとって)映像は人と関わるためのツールなんです』って言ってたよね。あれはなんだかすごく引っかかる表現だったけど」

「映像を専門にしてきたひとが誤解して怒りそうな発言だけど、それを恐れずに言い切っているのは、〈撮る〉ということ、〈つくる〉ということにおいて門脇さんたちが誰かとの膠着した関係をつくりかえて、理解しなおして、生きなおそうとしているからだ。そこにしか、たぶん、制作は存在しない」

この「~し直す」は高倉のキーワードになっていて、今年はそこから脱したい気持ちがあるんだけど、語り直す、結び直す、作り直す、には漸進運動的な「揺れ」のニュアンスがある。終わらないし、そもそも進んでいるのかどうかもわからない。二元論の中空で、ふらふらと複雑に漂っている感じ。

まとめると、アール・ブリュットを颯真さんの制作という具体例をもとに人間理解の端緒となるような視角として再解釈したところが面白かった。が、具体的なエピソードを介して「理解」という言葉に落ち着いていく展開と、「制作した当人なりの意図を知り、その視点に立ってみる」という一言、門脇さんの「アートは理解すること」という表現には、どうしてもモヤっとしてしまった。

ただ、父は俺が上で書いてきたようなことは百も承知で、しかし限られた文字数で、新聞というメディアにおいて、老若男女さまざまな読者に向けて書く文章として、ここに着地したのだと思う。自分には出来ないことなので文句を言っているつもりは無く、むしろこれから連載がどうなっていくか、期待し過ぎている感じです。

 

タコ 分かりきることなど不可能(或いはその必要もないもの)だということを静かに受け止めて、そのうえで相手との向き合い方を更新し続ける、というのが高倉の言う「~し直す」ということだろうか。

行きつ戻りつ、距離や角度を絶えず修正し続ける過程にこそ制作が生起してくるのかな、と思わされました。

ところで門脇さんも(高倉も?)「理解できないこととともに生きる」ことをテーマの一つに据えているけれど、一般的にはそれは凄くエネルギッシュでストレスフルなことでもあると思った。大抵は自分にとってよく分からないものは遠ざけたくなるし、あるいは自分なりの納得の仕方で誤魔化したくなる。向き合い続ける、ともに生き続けようと思える強さや意志は何に起因しているの?

 

 強さでも意志でもなく、俺には、門脇さんのそれはもう「クセ」のようなものに見えている。テーマに据えているのではなく、いや、最初は意識されていたのかもしれないけど、門脇さんは自分で「病気」とまで言っている

門脇さんは全然領域の違う人と、彼らからの無邪気な無理解や誤解に曝されながら、それでもずっと一緒に活動し、それを時にものすごく「疲れる」と言いながらも延々と続けて、すごすぎるから、毎回「この人こそ自分にとっては他者(ストレンジャー)だ」と思ってしまうんだけど(笑)、同時に、ものすごく自分と通ずるところがあって、俺もひとの理解できない部分や自分とかけ離れているところに惹かれていくようなところがある。(それは大学で他者論に興味をもって、掘り下げようと思っていた問題意識とつながってくるんだけど。大学を辞めてから、それを論じるというかたちではなくて、何らかのかたちで実践する方向に進んで、その実践の形式がたまたま「制作」だったわけです。)

やっぱり最終的には「何かありそうだから」としか答えようがないな。まだ自分の知らない、分からない物事と一緒に居ると、何かが起こりそう。だから、とりあえず一緒に、そばに居てみる。何も起こらないかもしれないし、不快なことが起こるかもしれないけど、もう一緒に居ようとしてしまうのだから仕方がない、という感じ。

 

2023/02/28 本人の「すばらしい」、で納得はできないんだよなー

上のタコのマリネ君とのLINEのやり取りを父に転送した。連載は既に佳境に入っている。

 いま書き直した門脇さん回を送った。

タコのマリネ君との一連のやりとりは、昨日門脇さんと電話で話した「分かり合えなさ」と「理解する(しようとする)ためのアート」の違いをどう捉えるかの議論と重なっていて、これを先に読めばもう少しうまく書けたかも、と今思った

意図しない芸術と、本人なりの意図を知るという後段部分の矛盾はいま言われるまで気付かなかった。うまく書けた方だと思ったけどまだ甘いな…

 

 のちの会話でパートナーさんたちが父の原稿を読み上げて「『お構いなしにやっては去っていくだろう』…去っていっちゃうのかー」「待ってー(笑)」と言っていました。門脇さんに困っちゃっているひとたち

 

 去っていく…確かにAiの門脇さんと言っているから、そういう反応になるか。本人も「自分がいなくなって初めてここはまともになる」と言ってるしなあ

自己解決をめざすけど、付き合いの長い皆さんから「こうしたほうがいい」みたいな話があれば歓迎します

どんどん変えていきます

 

 特になく、「門脇さんの返信が『すばらしい』に変わりました」「それね、笑っちゃったー」みたいな。困っている人たちの目線ですね

 

 本人の「すばらしい」、で納得はできないんだよなー

 

 

 代表理事を務める障害者福祉事業所「アート・インクルージョン」内でじっとしていることはなく、気仙沼インドネシアパレスチナへと気ままに飛び回る。絵を描き、映画を撮り、作詞作曲もすればラップも歌うアーティストだが、むしろみんなで過ごす場を創っている、という方がぴったりくる。「別に無理に一緒にやる必要なんてないはずなのに、何か面白いことができそうだったら、それいいじゃん、一緒にやろう、と声をかけずにはいられないんですよね」。もう病気ですねと笑っている。

([壁をなくす/包み込む](14)食い違うから面白い)

その後の再々替では、私がインドネシアカフェにはじめて参加したときに書いた『持ち寄って、拡散する』という文章*8の一部が父の記事に引用された。

 

 再々替すごく良いです

でも、正確に書きとったわけではない俺の聞き取りを入れても良いのかしら。

新聞記事的に。門脇さんが良ければ良いのか

 

 全然問題ない

このカギカッコは他のどの言葉より門脇さんの本質を伝えている

 

 そんなふうに言われたのははじめてなので嬉しいです。書いておいて良かった

 

 やっぱり一緒に過ごしている時間の濃密さが違う。発言の中から本質をつかみとる力も必要だけど。

いやあホントに14回はマジで助けられたよ。深野さんのメールとインドネシアカフェの文章が無ければどうなってたか。

 

 最近アート小もAiも苦しいことが多くて疲れていたので、俺も記事にかかわることですこし救われました

 

2023/03/01 伴走的批評、伴奏的制作

 最終回の原稿終わったー

ものすごい解放感に浸っている

 

 お疲れ様です!!!!!

(不思議な言い方だけど)門脇さんの最近の言動が父の記事に影響を受けているような感じがする

 

 門脇さんは行為者だよね。考えるだけの人じゃなくて常に自分で行為しながらその意味を言葉にしようとしているというか。

門脇さんの文章は、だから結構表現に揺らぎがある。みちかさんの個展のときの文章、代表就任のときのツイッター、取材でしゃべる内容も。ひとところに留まらずに作り替えてしっくりくる表現を探している。理解とか分かり合えなさについてもそうだし、それ以外についても。とても真摯な人だと思う。

この分かり合えなさは本当に門脇イズムの大事なところで、大抵の人を戸惑わせる部分でもあるけど、何も知らない読者に伝えるのは難しいね。正直あの原稿できちんと伝わるとは思えない。

 

 その表現のゆらぎとか、意味の絡まりを、メタ的に把捉して言い換えていく、ということが(門脇さんに言わせれば「批評」的に)私のやるべきことなのかもしれません

それは彼らと一緒に行為しながら、制作しながらじゃないと、できそうにない

 

 そりゃもうキミにしかできないよ

 

 伴走的批評、伴奏的制作

 

 そんなやつ周り見渡してもどこにもいないもん

まず、そんなに長時間付き合えない。そんな立場の人がいない

 

 じゃあ、その文章を誰にでも分かるような、読みやすく短いものに編集しなおすのをおねがいします笑

 

 なんでやねーん笑

いや長いままでいいんじゃないの

 

 文章を見せるたびに、長すぎる、俺ならもっと短くできる、と言い続けていた父から、そう言われる日が来るとは…

 

 Aiにいるとなんでも無理に変えない方がいいと思えてくる

 

2023/03/16 つぎは自分のエピソードがはじまるのかも

最終回掲載後のやりとり。

 地球対話ラボの渡辺さんがAi連載をすべて読み、絶賛していました。足で稼ぐ記事だと。とくに、かっつんの自販機のシーン(第6回)。短くわかりやすい文章のなかに、それだけではない面白いフレーズが混じっていて素晴らしかったと。

 

 渡辺さんはオンラインの記事を読んでくれたのかな。ありがたいですね。

 

 うん。「作品をひとことであらわすのがすごい」とも言ってた。渡辺さんももとジャーナリストで且つ人類学徒なので、フィールドワークの賜物だという褒め方だった

門脇さんの回も、本質を突いている、みたいなこと言っていた

 

 15回全部読んでくれたことに感謝

 

 俺はなんだかんだ言って最終回がやっぱり良いなとも思い始めている。

 オンラインライブの曲の合間に視聴者に語りかけるアイドルの 優花ゆか さん(25)が、たまに緊張で言葉に詰まる。右手にまひがある美智子さん(50)が「落ち着いて」と左手でサインを送って励ましている。

 自閉症の智也さん(22)は車椅子の照代さん(55)に「テクノズボンがあれば歩けるんじゃない?」と話しかける。足の不自由な人が装着できる未知の補助具をひらめいたようで、「それがあったら階段も楽に上がれるね」と照代さんが感心している。

 その智也さんにも悩みがある。ユーチューブで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」の人形劇を見て、「自分も地獄に行ったらどうしよう」と本気で落ち込んでしまった。「だったらお参りすればいいよ」と職員に言われ、颯真さん(23)が作る一番町観音堂に手を合わせて心を落ち着かせている。

([壁をなくす/包み込む](15)「違い」が力になる)

具体的なエピソードのなかでほんの些細な、ユーモラスな心遣いが円環するシーン。これはあらゆるひとが(どんな読者でも)その円環に加わる(あるいは既に加わっている)可能性にひらかれていることを示すシーンですよね。その延長に自分がいることを確信できるシーン。もちろん、大輝さんの回とかから既に示唆的だったけど

最後の、智也さんが颯真さんの御堂に手を合わせるエピソード、まったく障害が関係ない。「違い」からはじまる些細な希望(ほっこり)みたいなものが迫って来て、あぁ、つぎは自分のエピソードがはじまるのかも、と思わせる

と思ったらやっぱり、直後の村上先生の視点(「最終的にめざすのは、障害の有無だけでなく、性別、年齢、国籍など、全てを包み込むこと」)から包摂される自分の姿が見えて来て、では自分は「違い」を排除しない些細な心遣いがどのように可能か、と問題提起されているようにも感じられる

 

 この回は骨格だけがコンテ段階から決まってて、細部は悠樹を含めいろんな人に補って作ってもらった、というところが一番色濃く出た回だったよね、「多様性」という言葉を「違い」に書き換えてみるとか。上手にできるかどうでもよくなってくる、というくだりは青山さんの言葉だし、蜘蛛の糸は2月になって河田さんが教えてくれたことだし。初回に感じた居心地の良さはこれだったのかー、と一周回って解像度が上がって見えてくる感じで終わりたい、という。

 

 なるほど、第1回の応答にもなっているのか

とにかく、お疲れ様でした

 

 

*1:ここで言う「参加」は、組織(一般社団法人)としてのアート・インクルージョン雇用契約を交わしたタイミングを指している。しかし、アート・インクルージョンは組織である以前に活動体であり、理念・思想であるので、厳密にいえば既に2022年6月(どんどこ市)に参加しており、あるいは、それ以前から門脇さんとの活動(インドネシアカフェ等)のなかで(理念・思想に)参加していたとも言える。

*2:アート・インクルージョンでは、利用者のことをスタッフ、職員(支援員)のことをパートナーと呼んでいる。

*3:Ai代表理事であり現代アーティストである門脇篤さんと、ピアノの即興演奏を行うかっつんさんのユニット。かっつんさんのピアノを叩いて遊ぶような演奏を、門脇さんがDAWで弄ってループさせたりエフェクトをかけたりして音楽にしていく。

*4:

*5:

*6:私がAiに入社後すぐにキュレーターとして制作することになったAi month2022というアート・プロジェクトの一企画「青い沢」のこと。長町の老舗文房具店である赤井沢長町本店の入り口付近にある柱上部に、Aiのアーティストたちのつくった作品を無造作に貼り付ける。Aiのごちゃ混ぜっぷりをそのまま商店の一角に移植するという、ただそれだけの試み。

赤井沢長町本店の柱

*7:

*8:以下の箇所からの引用。

 色々なひとが色々なものを持っている。それはセンスとか能力とかだけじゃなくて、趣味とか好きなこととか、なんかよく分からないけどずっと続いていることとか。門脇さんたちは、みんなが持ってきたあれこれをテーブルに並べて、これをやったら楽しそう、こんなこともできそう、、、「じゃあ、一緒にどうですか?」と見ず知らずの僕なんかにも声をかける。門脇さん自身は「もう病気ですよね」と笑っていた。「別に無理に一緒に何かをやる必要なんてないはずなのに、何か面白いことができそうだったら、それ、いいじゃん、一緒にやろう、と声をかけずにはいられないんですよね」

制作のたどりなおしと制作的なこと - メモ

 

2022年11月11日に「栞の束から制度化へ:制作するを制作する」と題してオンライン企画を行った。ここに残すのは、当企画において準備したハンドアウトの一部である。

 

 

はじめに:背景と趣旨

同年にすれ違う栞の束とという制作を行い、そこからstrangers in my townというプロジェクト(2023年2月以降の漂流葉書でとうめいに)へと移行していくタイミングだったため、本企画の趣旨は以下の2点だった。

  • 「すれ違う栞の束と」という制作では(それぞれにとって)何が起こっている(いた)か、みんな(何も知らない人も含む)で話し合うことで今回の制作現象を再制作するような場をつくる。
  • 新作「strangers」の序文的なものとして、過去の滴々の制作から受け継ぐこと・新たに実験的に盛り込むことをそれぞれ整理して共有してみる。それを参加者の感想や質問などによって変形させていく。

要するに、「すれ違う栞の束と」の総括、そしてそれを踏まえた次回作のコンセプトづくりである。また、裏のテーマとしては、滴々の制作にかかわってきたひと(水澤先輩やその友人、父など)といま高倉が仕事や制作でかかわっているひと(門脇篤さんや中川真規子さんなど)、そして高倉の思考の基礎をつくってきた「たちどまる読書会」に参加しているひと(佐藤みたらしくんやタコのマリネくんなど)、この三者を一度にあつめて、まったく異なる文脈をひとつに重ねてみる、という個人的な愉しみがあった。

ところが、企画本番であまりにもグダってしまったため、用意していた内容のほとんどを話せず、また企画終了後も結局話す機会がなく、完全にお蔵入りになってしまった。

用意していた内容のうち特に、(1)滴々の制作を振り返り(2)具体的に私が何を制作と呼んでいるのか、をまとめた箇所は自らの立ち位置を明確にし、今後もその都度立ち戻るための指標として有用だと考えるので、ここに記録・公開する。

※以下は2022年11月につくられたメモなので、それ以降の「漂流葉書でとうめいに」「イメージを歩きつつ(風景を誤読する)」や2023年のボーダレス映画祭、気仙沼アート小学校、アート・インクルージョンにおける制作などについてはほとんど書かれていません。

 

制作をたどりなおす

高倉の制作(2017年〜)
  1. 私的な創作活動
    1. 【あしたのおと】(旧ブログ)開設(2017年7月)と文章執筆:大学1年生のときに約47000字の「新海誠論」を徹夜で書いてしまう。それ以降、なにか文章を書いては親友や父にだけ送って読んでもらうことを続ける。主題は自他関係論と言語(表現)論
    2. 詩歌作と即興音楽:未だ漠然とした「表現」への志向。なんとなく、ことばとことばじゃないものの境界に向かいたい
    3. 思索と詩作の両輪、論理と身体の二重化。考えるだけでなく、いかに具体的に行為し体現していくか、しかし、考えること、本を読むことをそこから切り離したくない。あくまで制度の内側にとどまり、論理に一元化し、表現形式も執筆や発表に偏ってしまう「研究」行為との相容れなさ?
  2. 仙台の芸術文化シーンへのゆるやかなフィールドワークとイベント参加(2019年12月〜)
    1. 青野文昭さんの個展(メディアテーク)に衝撃を受ける火星の庭や曲線、マゼランなどの本屋(というか場所を生み出すひと)に出会う。「場所をつくることと表現すること」という漠然としたテーマが浮かぶ。「とにかく、いろいろなひと(場所をつくっているひとや表現活動をしているひと)のはなしを聞きたい!!」という欲求が生まれる。
    2. 小野和子さんとの出会い高橋親夫さんとの出会い。表現や場所に触れて感動したら、文章を書き(書いてしまい)、手渡し、直接読んでもらう。仕事以外の仕方で社会とつよく繋がるような経験。1年間のまとめとしての【「表現」についての覚書】(2020年11月)作者が伝えたいことを手放す(=作者が「場所」になる)ことで生まれてくる「表現」について。
    3. 伊東卓さんとみはらかつおさんのTALK【過去を視る 過去を想う】ファシリテーション(2022年1月)。「聞く」という仕方で参与し、語りの場が媒介的につくられていくこと。実際に「場所」をつくり、「場所」になる経験。
  3. 【たちどまる読書会】ふわっと設立(2020年6月〜)
    1. 「たちどまる」を共有する場所。通り過ぎないこと、批判すること。テキストを輪読するが、目的はテキストの読解というよりも、みんなで「たちどまる」ことそのもの。テーマは、『宮沢賢治』(見田宗介)、現象学、風景論、など。
      →しかし、「たちどまる」とはいえど、やればやるほど留まってはいられない!読書会を終えてから気づくと、立ち止まった地点とは別の地点にいる。何かに気付く、世界の見え方が変わっている。ゆらゆらと揺れだしている。「たちどまる」(何かにじっくりと向き合うこと)が含意する制作(ただ、たちどまっただけなのに、気づくと「つくっている」)。

 

滴々の制作(2021年1月〜)
  1. 【景に遇う】
    1. チフリグリいのうえさんとの出会いと「なかの方アートショップ」への参加(2020年1月・2月)。ワークショップ【景に遇う】の共同運営。いわゆるアートが関わる場所に、制作者として参加するきっかけ。
    2. 「滴々」名義でSNSはてなブログ【波頭】開設(2021年6月)。制作の外向きの発信。
    3. 【せんだいアンデパンダン展】出展(2021年9月)。
    4. 【滴々個展「景に遇う」】開催(2021年11月)。その「経験を咀嚼して飲み込む」ものとしてエッセイ【interlude/祭りのあと】。制作ってなんなの?なんでこんなことをやってしまうの?ということを実践的に考えはじめる。
      1. 創作現象において立ち上がる〈出来事〉
      2. 作品について:「風景が(偶然に)あらわれる/残る」
      3. 展示について:「場所として生きること」と「プロセスのさなかに置くこと」
      4. 技術について:どのように「流れ」に介入するか
      5. 祭りのあと:余韻と予感の日常世界、生活の背景としての祝祭
  2. 【すれ違う栞の束と】
    1. 発案と呼びかけ(2022年6月)。7月にインドネシアに行くことになったが、「はじめての海外!」的な経験ではなくて、どこにでもある生活の遍在、同時発生のほうに着目してみよう、という認識態度を課す。「写真を送る」「持ち歩く」「旅先で詩を書いて送り返す」という行為。
    2. 同じコンセプトでつくったものを、繰り返し複数の媒体で重ね直すスタイル。まず、写真と詩を散りばめたテクストを「波頭」にて公開(123)。その後、インスタでフォトコラージュを公開。Youtubeで映像作品を公開(Collecting bookmarks of our stories)。最後は製本して【アンデパンダン展】に出展(2022年9月)。
    3. 「どうしようもなくそこにあるのに、うまく読めない。読めないのに、ずっと、そこにある」。いま目の前にありありと立ち現れているのにもかかわらず、すらすらとは読めないテクスト。遍在する生活のテクスチュア。
  3. 【イメージを歩きつつ(風景を誤読する)】 
    1. 佐藤みたらし作『仙台で部屋探しをする前に住む場所を決める。』(2022年5月)。「ネット記事」「街歩き」を批判する。何もないように見える街でも、歩いていれば生活の断片のようなものはある。散歩者の一人称的風景(テクスチュア)からはじめる。たまたま見つけた中途半端に古い町中華!!!!!!
    2. ただ歩くだけ。意味づけしない。目的を持たない、予め行く場所を決めない。気になったことを手放さない。複数回の散歩を重ねて、たどり直す。語り直す。
    3. 桜ヶ丘を歩く(2022年7月)。生活者が一切認知していなさそうな沈砂池。フェンスで囲まれた空き地。50円自販機。

 

門脇さん・地球対話ラボとの制作(2021年12月〜)
  1. 【つながるインドネシアカフェ】(2021年12月〜)に参加。
    1. どうして参加?→門脇さんや中川さんがやっていることの「わからなさ」。わからなかったら、とりあえず近くに居てみる。一緒にやってみる。どんなことばを使っているか、何をしているか、観察してみる。仙台でのフィールドワークの延長。
    2. 12月の初参加後、【持ち寄って、拡散する】執筆。門脇さんたちのどんどん「巻き込んでいく」動き。巻き込まれることによるアイデンティティの拡散。自分のやっていること、他人のやっていることが、どんどん伝播して場所に成っていく感じ。
  2. 「オンラインボーダレス映画祭」(2021年3月)にスタッフとして参加。映写室ですべての映像をみる。【いつの間にか踏み越える/戸惑いながら立ち止まる】執筆。門脇さんたちの制作「Strangers in Sendai」において何が起きているのか、という問題意識。個々の作品の内容や意味よりも、制作行為そのものや方法論をたどる。【持ち寄って、拡散する】でとりあげた門脇さんたちの態度や認識をさらに掘り下げる。
  3. インドネシア渡航(2022年7月)
    1. 門脇さん、中川さん、渡辺さんたちの相互補完的関係性に一貫して着目。とにかく、自分にとっては異国人よりも、彼ら(の関係性)の方がまずストレンジャー(他なるもの)である。
    2. レポート【通る、迎える身体】。贈与としてのコミュニケーション(アルフォンソ・リンギス)。しかし、本当に書きたかったことは自分のことだけではなく…。門脇さんたちがまずインドネシアで解放されている(?)風景。
  4. 気仙沼図書館における地球対話のファシリテーション(2022年9月)。
    1. はじめは「対話」ということばに対する懐疑があった。ストイックなイメージ(ex哲学対話、熟議民主主義…)。
    2. 地球対話ラボの言う「対話」はコミュニケーション全体のこと。無視しない、目を背けない、ということ。返事というか、反応すること。それを媒介として起きる出来事をすべて認めて、面白がる感じ。その結果として、関係が生まれていく。
  5. 「アート・インクルージョン(Ai)」の活動に参加(2022年8月-)
    1. 【Ai month2022】のキュレーション(2021年9月-10月)。仙台市長町の商店街の5つの店舗とAiスタッフが協働し、インスタレーションやワークショップをつくる。例えば、ハトヤという老舗駄菓子屋で「昭和のおもちゃであそぼう」というワークショップをする、など。全く表現活動に馴染みのないひとと対話しながら少しずつ企画をつくっていく。地域のひとと障害のあるアーティストを(ある意味表面的に)つなげながら、何か誰かが「たちどまってしまう」「とどまってしまう」仕組みをつくれないか。

 

制作的なことについて

「制作」はどこにおいて起こるのか?そこはどのような場所なのか?
―中動態、パフォーマンス、ワーク・イン・プログレス―プロセスの内側へ
  • ひきこもり臨床論としての美術批評」とAimonth2022
    • その作家がなにをかいたのか、なにを示せたのか。なにを思ってかいたのか。その作品に込められたメッセージは?意図は?制作をする目的は?この作品はなにに分類できるか。作者はどういう人物なのか。この作品から自分はいったい何を受け取れば良いのか。→これらの問いを一旦わきに置く。作家とか、作品とか、意図とか意味とか、伝えたいこととか、メッセージとか、そういうものはもう興味がない。
    • 「作るプロセスに内側から付き合う」こと。プロセスの外側から選別した「利用可能な結果物」や「効果」ではなく、「見えない(理解不可能な)生産過程」の内部(そのすぐそば)に留まろうとする態度ただ単に、そのひとと、そのひとの表現行為と、一緒に居ようとする態度。
    • 例えばAimonth2022で言えば、赤井沢の柱に貼られたものではなくて、かっつんが即興的にペンを走らせていく時間と、それに同期するようにして私によって作品がロール紙に貼られていく瞬間について。エンドー時計店に設置された映像の音が聴こえないことではなくて、店主が毎日スピーカーを屋根にくくりつける時間と動画を再生する時間について。たかピーさんの駄洒落とハトヤ店主の子供への声掛け。
    • 例えば、なにかしようとして苦戦し口ごもっているひとが居る。アートインクルージョンに来る利用者でも、ハトヤに来るこどもでも、インドネシアカフェに来る実習生や地元のひとでも良い。誰もやろうとしないことをやろうとする表現者でも、表現と向き合って途方に暮れている鑑賞者でも良い。その横から入って口を出すのでも彼のできることを全部代わりにやってしまうのでもなく、それをじっと待ち、見つめたり、一緒に考えたり、最後の一瞬そっと手を添えたりする、そのあきれるほど冗長な時間について。
    • 「わけがわからない」といって無視しないこと。「こういうことでしょ」と意味に還元して、足早に通り過ぎないこと。
  • 『芸術の中動態』(森田)における〈中動態〉概念
    • 日本語の「見える」。「思われる」(デカルト)。「つくる」→「たち現れてくる」(クローデル)、「不意をついて生じたり」(カンディンスキー)、「現れる」(ゴッホ)、「おのずとことばになる」(エルンスト)、「美しいものとして詩人に現れる」(アラン)。宮沢賢治など。
      「おのずから」起こる「出来事」。「私」という項は過程の内部にある(バンヴェニスト)。動作主は必要ない。しかし、同時に主体が生成されつつある。その出来事が可能になる場所としての主体。
    • 「制作」は主体と環境の相互生成的な絡み合い(交渉)という「出来事」、その過程である。ごくあたりまえのことを言語化したに過ぎないかもしれないが、「出来事が現れる」過程そのものへと降りていく態度を示した意義はある。しかし、
      「中動態である」と指し示し、一般化するだけで終わっていて、個別具体的な制作現象に迫るような議論ができていない。「中動態は生成変化の態」と言うが、なにがどのようにつくられ、なにがどのように変化していくのか?
      あくまで形態化された「作品」及びその「完成」にこだわっており、議論の可能性が「芸術」という制度に限定されている。
    • 上妻世海の『制作へ』p47において森田を批判的に論じている箇所がある。「作者」「作品(完成品)」「鑑賞者」、さらには「芸術」ということばも脱ぎ去り、あたらしい制度をつくる。「制作」を芸術の制度から解放しようとする視点は我々のものと近いが、しかし、その批評においても、まだ各個のプロセスの内部に具体的に入っていけていない。一般化にとどまっている。
  • 『パフォーマンスの美学』(リヒテ)における〈パフォーマンス〉概念。
    • リヒテも(ヘルマンに倣って)「作品」という概念を排除する。「作品」の内容や意味ではなくて、それが上演されるという「こと」そのもの、その「出来事」の過程に制作がある。
    • プロセスの一回性、同時多発性。誰も全体を把握できない。誰がなにに出会うのか、何も起きないのか、すべてを予見できない。
    • 役割の反転可能性、関係の可塑性。固定的なものとして世界を見ない。脱安定化と多安定化。
    • もともとは演劇などの身体表現や祭祀・儀式などを説明する概念だったが、そこから彫刻や絵画、インスタレーションなどの芸術制作、更に広くコミュニケーションなどの日常的実践まで拡張できる。中動態概念では扱えない時間的射程の広さ、影響範囲の広さ。例えば、「在廊」というただギャラリーにいるだけ、作品を見守っているだけに思える行為をパフォーマンスとしてとらえてみる(【在廊というパフォーマンス】)。あるいは、【すれ違う栞の束と】のパフォーマティヴィティ。手紙を書くこと、投函すること、それを送り届けること。すべて含めて、出来事の意味をプロセス内在的なものへと解放すること。
  • 川俣正「ワーク・イン・プログレス」
    • 完成形を見せるだけではなく、工事中〜解体・撤去まで含めて制作とする開放系の制作。仮設かつ未完。
    • ひとりではできず、必然的に多数のひとが関わるシステム(作者は誰?不定形)。川俣のようなアプローチ(地域におおきな構造物をつくる)ではない仕方でプロセスの内側に他者を呼び込む(巻き込む)ようなシステムを作りたい。「弱いロボット」的なアフォーダンス。小さくささやかで、ほんのわずかな時間。例えば、はなしを聞く、とか、手紙を届ける、とか?
    • しかし、アートプロジェクトが拡散し巨大化し社会化し、プロセスが効率化されていく側面もある。強みと弱み。藤田直哉の「地域アート」批判。とはいえ、アートプロジェクトがちゃんと「制作的」である瞬間もあるのだが…。それをどのように言語化するか?(細部の出来事をどのようにえぐり出し、可視化するか)

 

「制作」では何が起きているのか?何が生まれているのか?
―幼年期、アジール、もうひとつ別の現実―制作とは制度化である
  • ふたたび見出された〈幼年期〉(井岡詩子『ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』)
    • (文学とは、)ついにふたたび見出された幼年期である。」おとなの世界を知ったうえで、どうしても還ってしまう場所としての「こども」。屈折している。批判的な自己意識。
    • 「幼年期」への志向とは、他者に支配された状態やなにかに従属した状態からの解放を目指す際に選択される身振りの特徴を捉え、集約したものとも言えるだろう」(p40)。たとえば、有用性の破壊(至高性)。大量の石に写真を貼って、ドミノのように置く、それを拾って眺める(阿部明子さんの展示)。見積書や履歴書を支持体にする(Aimonth2022の赤井沢)。約束や大きな物語の拒否、裏切り。途中までは意識的に、意識を有用性から引き剥がす
    • 意識の転換としての〈遊び(遊戯)〉。丁寧に、真面目に遊ぶ(労働や学問の端々にもある?サドの遊戯的理性)。完全に理性をカオスに飛ばしてしまうことはできないし、カオスを捨象して有用性だけに生きようとすることもできない。意味に汚されていない「余白(あそび)」を理性的に温存し、その余白のなかを泳ぐこと。
    • それはまた〈逃走〉でもある。「あるべき姿」という理性の囲い込みからの逃走。「存在すること」からの逃走(レヴィナス『逃走論』?)。消えてなくなるためにそこにある(カフカや賢治)。どこかに安息の地を見つけるのではなくて、逃げ続け、揺れ続けることが欲望される。「ひとつの決まったかたちにならなくて良い」「揺れていても良い」避難所としての〈アジール〉(『声のつながり』所収の安部さんの論考)。
      この「揺れ」とは何なのか?
  • メルロ=ポンティの〈制度化〉概念
    • 偶然の出来事や自発的な行為がふと生起し、そのおかげで、あるダイナミックな実践の領野がとつぜん開かれること、そして、この領野において、出来事や行為―つまりささいな仕草のやりとりや、規範からの逸脱や逆行が、予想外な「意味」へとおのずから結晶化し、それまでの制度では不可能と思われたことが可能になること、そしてこの意味が他者たちとさまざまな次元で分かち合われること、あるいは少なくともそれを分かち合う他者が創設されること、それが制度化である」(廣瀬浩司『次元の開けとしての制度化』)
    • 「ふつうはこう考える」「ふつうはこう感じる」というようないつもどおりの内面の規範がいつの間にか同じようには機能しなくなり、普段とはちがう考え方をしてしまったり、思いもよらぬ行動をとってしまったり、なにかを鮮烈にかんじとってしまったりする。そして、そのそれぞれが意外な意味をもって、今後の行動や考え方に影響を及ぼす。
    • 個展「景に遇う」をつくりあげたこと、門脇さんたちの活動に参加していること。いつの間にか身体がほぐれる。遊んでしまう。そこにただ居続ける。制作することも、受容することも、その場に立ち会うことも、そこであたらしい身体をつくったりつくらなかったりする可能性に参与することなのでは。インドネシアカフェは、はじめは恥ずかしげだったインドネシア人実習生たちが「七輪を取り囲んで焼き鳥を焼く」「ギターを弾いてみせる」ような身体をつくったのかも。
    • グループ展の会場でどうすれば「本を手に取る」というアクションが生まれるか。箱を予め閉めておくか、予め開けておくか。制作の「技術」というものがあるとすれば、力の動きや場の硬直を敏感に感じ取り、その動きをズラしたり一時的に抑制したり解放したりするワザではないか。例えば、「読ませる」「言わせる」「黙らせる」「触らせない」「見せない」などの力の動きに介入すること。

 

さいごに:「strangers」という制作をどのように考えるか?
    • 「stranger」や「よそ者」、「他者」という語を使わない。あらかじめ引かれている(ように見える)境界線から始めるのではなく、誰かが誰かにとって「あらわれる」、「みえてくる」、「関係性が生まれてくる」場所に立ち会うようなワークショップ。
    • SNS的なファストなコミュニケーションの極北としての「手紙のやりとり」。コミュニケーションの余剰。手紙を書く、投函する、送り届ける(場所から場所へ移動する)、読む、返事を書く、というパフォーマンス。そのプロセスのさなか、決して可視化されない想像や感情。