波頭

束の間、淡く残ることについて

「表現」についての覚書

「光と時のドキュメント」 一之瀬ちひろさん×小森はるかさんトーク@曲線

 

〈イベント概要〉

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一之瀬さんと小森さんがお互いの実感を確かめ合う時間を見ていた。実感というのはつまり、相手の作品から受け取った感覚とか、自分が作品を作っているときの手触りのようなものだ。二人の「作り手」としての実感(リアリティ)が、少しずつ言葉になって、交わされていく時間を見ていた。その時間のなかに私が見出すことのできた、いくつかのことをここに書き留めておこうと思う。

 

 

何か自分の中のもの、自分の目に映ったものを誰かに伝えようとして「表現」へと向かうことはあっても、実際にその「表現」によって伝えたかったことが完璧に伝わるということは有り得ない。「伝えよう」という意思は「表現する」という行為の出発点にはなるが、最終的にその行為が行き着く場所は「伝えたいことが伝わる」というところからはズレた場所になる。

 

 

 

 「伝えたい、でも伝わらない」を軸とした表現の循環

一之瀬さんも小森さんも、元々は何かを再現し、伝達する意思に突き動かされ、それぞれの作品を作っていた。

対談の終盤、小森さんから「どうして(数ある方法のなかから)写真を選んだのか」という質問を受け取った一之瀬さんは、「撮っていくうちに『うまく撮れない』『あのときの感じとは違う』という自分の作品への不満が出てきて、そこから写真へと本格的にのめり込んだ」という話をされた。「うまく撮れない」という思いが強かったからこそ、「じゃあもういいや」と諦める方向にではなく、「どうすればいいんだろう」と没入する方向へと進んでいったのだろう。私自身も文章を書いたあとは「全然うまく書けなかったな」という思いがいつも強くあって、その思いこそが次に何かを書くときの推進力になっている実感があるから、一之瀬さんの言っていることはよく分かる気がした。

一方、小森さんはもともと劇映画を撮っていたのだが、どうしても「そのときを伝えられない」という思いが募り、ドキュメンタリー映画という方法へと進んだのだと言う。「そのまま」を撮るにはどうすればいいか?という切実な問いが、表現方法を変えさせるほどの力を持つ。このことも、想像に難くない。

はじめに乗っかっていた方法へとさらに没入していった一之瀬さんと、別の方法へと転換しながら可能性を拓いた小森さんは、確かに道の辿り方が少し違うが、どちらも〈そこに在ったもの/起こったこと〉をそのまま再現し、伝達することの不可能に一度直面しているという点で共通している。被写体となる現象や出来事、時間、関係性をそのまま映し(写し)出そうとした途端、そこからどうしてもズレていってしまう、という不可能性の顕現について、二人は恐らく確かな実感を持っている。

 

鶴見俊輔氏は『文章心得帖』のなかで次のように書いている。

 

…究極的にはわかりやすいなんていうことはない。自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。だから、表現というのは、何か言おうとしたならば、かならずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る。(24頁)

 

…読者とそれをとりまく人に、なかなかうまく伝わらずに、何か残ってしまう。そうすると、それはまた振り出しに戻る。こうやって無限の循環をする。それが表現というものなんです。完全に伝わるということはない。だから一種の無窮運動だというふうに考えられます。(25頁)

 

これは鶴見氏が、写真や映画についてではなく「文章を書く」ことについて語った一節なのだが、一之瀬さんや小森さんが直面したこと、辿ってきたこととも大きく重なっているように私には思える。伝えたいことがある、表現する、しかし「うまく伝わらなかった」という感じが残る、また振り出しに戻って何かを表現する…という「表現」行為の循環、二人はその中にいるのではないか。

もしかすると、この循環の内側を歩いたことがない人は、例えば次のように問いたくなるかもしれない。問一。結局、最終的には何かが完全に伝わることはない、それが分かっているのに、どうして「もう一度」と動き出すことができるのか。うまく伝わらない、という思いを何度も抱いて、それでも表現活動を続けているのはなぜか。問二。結局あなたの思いが、伝えたかったことが、再現したかった風景が、最終的に伝わらないのであれば、あなたの表現にはどのような価値があるのか。

答え方は様々あるだろう。なぜ表現を続けるのか、という一つ目の問いに対しては、既に書いた通り、「むしろ、伝わらないという感触こそが表現行為を駆動させるからだ」と答えることができる。伝わらない、という意識があるからこそ、「どうすれば上手く伝えられる?」という問いが生まれる。問いが、行動の推進力になる。そして、その問いに向き合い続けているうちに、何かが少しずつ「伝わっている」感触が現れてくる。そのひとかけらに縋りつき、そこから「前回より伝わる表現」を目指すようになる。

これは、伝達の不可能性に直面することで問いが生まれ、その問いによって新たに表現の可能性が拓かれていく、という一つのモデルである。一之瀬さんや小森さんが辿った道はこれに近かったかもしれない。しかし、これだけで二人の表現活動を輪郭づけることはできない。さらに言えば、このモデルだけで「表現」という行為を説明することはできない。上の二つの発問自体がナンセンスである、と言う表現者だっているだろうし、私には何も伝えたいことなどないよ、と言う人だっているだろう。ここまでの議論は、「伝えたいことがある」という動機の存在を前提し、そこを軸にして展開されている。当たり前のことだが、表現へと向かっていく人の溢れるような「熱」は、「伝達することへの熱」にすぐに還元できるようなものではない。上で提示した「伝わる/伝わらない」という軸は、表現行為の一つの側面に過ぎず、そこからすべてを捉えることはできない。

 

はじめに書いた通り、表現行為は必ずある段階で、「伝えたいことが伝わる」というところからはズレた場所へと行き着く。鶴見氏の言う「無窮運動」のなかで、最初に「伝えたい」と思っていたこととは別の何かが生まれてくるような場面がある。何かを伝えようとして表現を始めた者も、別の動機で動き出した者も、何も考えずただ内に溢れてくるものをぶつけようと書き始めた者も、自分自身が見たことや聴いたこと、内に秘めていることとは別のことに〈出逢う〉瞬間がある。

この〈「伝達」からはズレた場所〉について、今回のトークの内容に触れながら少し考えてみる。そうすれば、先に挙げた二つの問いに対して、別の角度から答えることができるようになるかもしれない。

 

 

 

 〈「伝達」からはズレた場所〉へ

「自分にとって大切なものが消えたとしてもいい」―世界の切り取り方について

写真を撮ること、映像を撮ることは、世界を「切り取る」行為でもある。そのとき、切り取り方によってはいくらでもフィクショナルになる。いくらでも意図的に好きなように切り取ることができる、だけど、そういうアンフェアな選び方はしない、と一之瀬さんは言う。いつも「よく分からない」ように切り取る。何らかの「余地を残す」ように撮っている、と。

「自分にとって大切なものが消えたとしてもいい」とも語る。自分の好きなところを世界から切り取る、というのではなくて、色々な見え方の可能性を残して、偶然性に身を委ねるようにして撮る。具体的な例として一つ挙げられたのは、「わざとフィルムを感光させる」ということだった。フィルムカメラ特有の(本来ネガティヴな現象であるはずの)「感光」を敢えて発生させて、写真に偶然的な光を呼び込む。フィルムカメラは現像に出すまでどういう風に撮れているかが分からないので、撮った本人の意図を超えた「よく分からない」作品が必ず生まれてくる。

自分が「良いな」と思ったタイミング、「写したい」と思った風景が、すべて光に掻き消されてしまうかもしれない。しかし、それでも一之瀬さんは、「ただの光にも見える、という見え方の可能性を残したい」と言って、この方法を選ぶのだ。

 

「自分にとって大切なものが消えたとしてもいい」という言葉は、「伝えたいことを伝える」という一点に最後まで拘り続けている限り、決して生まれてくることはないだろう。一之瀬さんは「伝えたかったこと」「見せたかったこと」が光に飲み込まれてしまうことさえ厭わず、そういった〈自分〉の意識を超えた何かが現れてくることに、すべてを賭ける。このとき、表現は〈「伝達」からはズレた場所〉へと自然に移動している。

 

「写真は〈背景〉を捨象する」「説明しないこと」―方法の生かし方について

一之瀬さんの『STILL LIFE』という写真集について、「例えば、この写真集には陸前高田仮設住宅の写真も載っているんだけど、それは説明がないと分からないですよね」と小森さんが話す。「一之瀬さんが撮っているのは、震災という〈背景〉を超えたもの。それは恐らく、その人が今そこにいるということ。気付かないような日常の一瞬…」。

写真は〈背景〉を捨象する。その写真の「舌足らず感」を生かしたい、と一之瀬さんが言う。そういえば、以前友人が短歌について、「過程を省いている」ことが一つの効果になっているのではないか、というようなことを言っていた。作者の人生そのものが丸ごと省かれて、すべての結果として作品を見せられる。そうやって省かれることで余白が残り、受け手の想像が広がる。この話を聞いたときはなんとなく少し違和感があったが、〈背景〉を丸ごと捨象されて、いかようにでも捉えることのできる現象そのものだけが残る、という部分は一之瀬さんの写真の話と重なる。

陸前高田仮設住宅の風景です、とはじめに〈背景〉を説明してしまえば、どうしてもその写真には「震災」、「津波」、「復興」といった様々なイメージが付加されてしまう。そのイメージの重さによって作品が傾いていく。しかし、一之瀬さんは敢えてそれを避け、あらゆる説明を絶って現象そのものだけを見せることで、強い磁力をもった一つの意味へとあらかじめ誘導することなく、無限の解釈可能性を秘めた〈存在〉(その人が今そこにいること)の時空へと鑑賞者を解き放つ。

 

一之瀬さんも言及していたが、「説明しない」という点に関しては、小森さんの映画作品についても同じだと思う。

2016年の作品『息の跡』では、岩手県陸前高田市で「たね屋」を営む佐藤さんを主人公として、彼の震災後の生活や周囲の状況を撮影している。その90分ほどの映像のなかでテロップやナレーションなどによる補足説明は一切ない(英文の朗読箇所で日本語訳が字幕表記されるのみ)。小森さんは、すべての状況説明を、風景と、佐藤さんほか登場人物たちから発せられる言葉に託している。

もちろん登場人物たちがいつも話して欲しいことを話すとは限らない。すべてのことを説明してくれるはずがない。だから、必ず分からないこと、不明瞭な部分が残る。しかし、それと同時に、思いもよらなかったことが語られ、想像もしていなかったことが起こるのだ。ここに小森さんの作品の圧倒的なリアリティがある。

 

「作り手自身が〈メディア〉になる」―作品に対する作者の在り方について

「何かの〈メディア〉であるような人を撮りたい」と小森さんは話す。「たね屋」としての日常の上に立った言葉を小森さんに投げかけ、英語や中国語で震災手記を書いて実際に世界に向かって放ってゆく佐藤さんの姿を見ると、確かに、〈メディア〉としての人間が映し出されていることを感じる。しかし、「わかる?」「理解できる?」と何度も確認しながら話す佐藤さんの姿は、同時に、その言葉を受け取っている(「わかる?」と確認されている)小森さんをも照らし出した上で、私たちの目に映る。私たちは、小森さんに向かって放たれ、小森さんが受け取った言葉を聞いている。つまり、作り手として画面の外側にいるはずの小森さん自身もまた、一人の重要な登場人物であり、また、一つの〈メディア〉なのだ。このことは何を意味しているのだろうか。

まず、何よりも先に、事実としての出来事と、生生しい日常、世界の自然な蠢きのようなものがある。それが佐藤さんの身体を通して言語化され、撮影者である小森さんに投げかけられる。小森さんはその状況全体にカメラを向け、自らを通過していく言葉を映像の内に収める。その言葉は編集行為を経て、最終的にスクリーンを介して私たちへと届く。このように重層化された〈メディア〉がもたらすのは、何重にも屈折し、新しく更新されていく「意味」である。このプロセスのなかで、「意味」を一義的に決定するような唯一の「主体」は存在しない。登場人物である佐藤さんは言葉を選ぶ主であるから「意味」の方向性を定める力が最も強いが、彼は同時に、出来事や日常から発せられた無言の声を最初に聴く「受け手」、その「レポーター」のような存在でもある。カメラを回すタイミングや場面の取捨選択・並べ方のすべてを操る小森さんは「作り手」だが、先に書いた通り、佐藤さんの言葉を一番最初にそのまま受け止める「受け手」でもある。そして、カメラ、スクリーンが映し出したものから、私たちは自由に解釈して、あるいは半ば突き付けられるようにして、「意味」を見い出す。このようにして三者の間で言葉が通過していく度に必ず「意味」が揺れ、様々な可能性を内包していくのだ。〈メディア〉になる、ということは、確定的な「意味」を創り出す唯一的な権威(主体)になることから降りて、場に「意味」を委ねること「意味」に動きをもたらすことである。小森さんの作品は、作り手である自分さえも〈メディア〉化してしまうことで、説明や誘導による作為的な「意味」の確定を避けて、表現がおのずから新たな「意味」を生み出していく可能性を担保していると言える。

 

 

 

 結語ー〈あらわれる〉ことに向かって純化すること

 

ここまで見てきた一之瀬さんと小森さんの、「見え方の可能性を残すように撮る」、「背景を説明しない」、「自分を〈メディア〉化する」というそれぞれの手捌きはすべて、表現行為を「伝わる/伝わらない」の軸から解き放ち、別の可能性へとひらくための具体的な所作である。何か伝えたいことや再現したいものがあらかじめあって、詩や写真や絵や映像などを媒体(手段)にしてそれを形にする…その枠組みの中で局限されてしまう表現の可能性を、意味の〈向こう側〉、〈存在〉そのものへとズラしていく。一之瀬さんと小森さんは、もしかしたらあの「無窮運動」のどこかで、表現を未知の場所へと解放していくための所作のひとつひとつを、「理論」によってというより身体的な「実感」の蓄積によって、長い時間をかけて会得していったのではないだろうか。

 

この作品を通して作者は私たちに何を伝えたいのか、作者はこの作品にどんな思いを込めたのか。このような発問の仕方は表現行為を「伝達」という一つの要素に還元して、作品の可能性を局限する。表現は、「何かを伝達する」という一側面からのみ捉えられ続けることで奥行を失い、いずれ枯れてしまうだろう。しかし、そこから少しずつズレていくような場所を想定し始めると状況は変わってくる。

〈「伝達」からはズレた場所〉とは、表現そのものから無限に「意味」が湧出してくる場所、表現が「意味」の媒体になりながらもそれ自体新たな「意味」を生み出す起点にもなるような、そういう場所である。そこでは作者という存在は、作品に手を加え方向性を定める役割を背負いながらも、完璧に唯一的な主体になることはない。表現自体が、作者の意図(思い)すら遥かに超えて、自ずから動く主体になるような瞬間があるからだ。

表現行為のなかで唯一無二の〈私〉が居なくなると、必ず作品に曖昧さが残る。偶然性と匿名性によって導かれるこの曖昧さが、作品に奥行きを、不思議な〈出逢い〉を作る。作者や鑑賞者が〈私〉から解き放たれたときに初めて起こる、この〈出逢い〉にこそ、表現をやめられなくなる理由と、「伝わる/伝わらない」という基準では語りきれない奥深さがあるはずだ。

 

 

一之瀬さんの写真は「束ねられないものを束ねている」ようだ、と小森さんが話す。最新作の私家版写真集『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』では、花、子どもの算数のプリント、手紙、余白にびっしり書き込みがされている単行本(アーレント?)、憲法の条文…と全く異なるモチーフの作品がバラバラに折り重なっている。一之瀬さん曰く、別の時間のものを一つにまとめる、別の時間軸のものを置く、ということを試してみた結果らしい。

「繋がらないはずのものが一つの何かになる」。これも最初に予期していた「意味」とは別の「意味」を新たに生み出すための、賭けである。わざと写真を感光させたときに作品がどのように変化しているか分からないのと同じように、実際に「別の時間のものを一つにまとめる」ことを試したときに何が〈あらわれてくる〉か、作者である一之瀬さんも確実な予想を立てることができない。

 

表現が〈あらわす〉ということでなく、〈あらわれる〉ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる

と、真木悠介氏が『旅のノートから』という本の中で書いている(88頁)。

今回の対談は、一之瀬さんと小森さん、二人の「作り手」としての実感が言葉になって交わされる密度の濃い時間だった。その言葉の交わし合いから、私は、〈あらわれる〉ことに向かって純化していくような、二人の表現に対する佇まいを見ることができたと思う。もちろん、二人に既に身体化されている(言語化できない)はずの「技術」については何ひとつ教えてもらっていない(教えてもらうことはできない)から、彼女たちと同じように表現ができるようになったわけではない。ここで学ぶことができたのは、表現することに対するまなざしと姿勢、そこで自然と立ち上がってくるような「所作」である。その一つ一つを手掛かりにしながら、私は私自身に適うスタイルで、〈あらわれる〉ことに向かって身体をひらいていきたい。

 

【引用】

1.鶴見俊輔『文章心得帖』ちくま学芸文庫、2013年(潮出版社、1980年)

2.真木悠介『旅のノートから』岩波書店、1994年

 

【参考】

3.一之瀬ちひろ『STILL LIFE』PRELIBRI、2015年

4.一之瀬ちひろ『きみのせかいをつつむひかり(あるいは国家)について』FREAKS、2019年

5.小森はるか『息の跡』紀伊国屋書店、2019年(2016年)

6.古田徹也『言葉の魂の哲学』講談社選書メチエ、2018年

7.見田宗介宮沢賢治岩波現代文庫、2001年(岩波書店1984年)

その他、芸術人類学者・中島智先生のSNS上の発言からも多大な影響を受けて、この文章は書かれました。

 

 

今回の対談で聞くことができた言葉の数々は、僕が日常的にギャラリーで写真や絵を鑑賞したり、短歌を作ったり、ピアノを弾いたりしているうちに湧き上がってそのまま残留していた「実感」と響き合うものばかりでした。これまでもその「実感」を言語化しようと幾度も格闘してきましたが、思考の整理が追い付かず、連戦連敗。今回の対談を聞いたおかげでようやく整理する糸口が開け、まだまだ粗削りなところが多々ありますが、なんとか形にすることができました。

 

最後に、本文でも引用していた真木悠介の文章を文脈も含めて再掲し、筆を置きたいと思います。この議論が、(『文章心得帖』の言葉で言えば)「自分にはずみをつけてよく考えさせる」文章になっていること、あるいは、他の誰かの問題意識への起爆剤になっていることを願いつつ。

 

 語ることが裏切りでないような言葉。生を裏切らない表現というものがあるか?

 表現とは、あらわす、ということである。このように理解されている。そして表現が、あらわす、ということであるかぎり、それはいつでも、いくぶんか、生を裏切る。しかし表現は、あらわれる、ということであることもできる。表現が〈あらわす〉ということでなく、〈あらわれる〉ということであるかぎりにおいて、表現は、生を裏切ることのないものであることができる。

 表現が、あらわす、ということであるかぎりにおいて、そのぶんだけ、たとえば詩人であることと、百姓であることは対立している。けれど表現が、あらわれる、ということであるかぎり、そのぶんだけ、詩人であることと百姓であることは、おなじことである。

 

 

(2020年11月5日 筆・高倉悠樹)