波頭

束の間、淡く残ることについて

木村敏『異常の構造』 - メモ

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「正常の側から異常を語るということが果たしてどこまで可能なのか、というのは考えてしまうな」

「それは当事者性を欠いている、とか、そういう問題?」

「いや、だいぶ違う。当事者性については、西村ユミ先生と宮子あずさ先生が話していたことを忘れたわけじゃないし*1。そもそも当事者ってなに、ってことにもなるでしょう。」

「うん。それだと少し雑すぎると」

「要するに、正常/異常というような分断を議論の前提として仮構し、我々は正常の方に依拠して異常を語り始める、そこで既に語りそのものが正常の方に縛られてふらついてしまうのではないか」

「正常の方に依拠して?」

「正常/異常という雑な分節のしかたを取る限り、こういう議論を展開できている時点で我々は正常側に放り込まれるでしょう。生活実践的にも実際正常だし」

「まぁ、たしかに。で、ふらついてしまうというのは?」

「異常性という仮構=輪郭付けによって、議論自体は〈目の前の人が奇妙で気味が悪い、だけど同時に不思議と心が引き寄せられる〉あの感じから離れつつある」

「あの感じ、なるものがあるのね」

「異常とかいう言葉では表現しきれない微妙な感じね。『惡の華』の仲村さんみたいな」

「仲村さんは最高だけども」

「しかし、その輪郭のなさを異常という概念で論理的に整理していく過程で、異常とされるものについての当惑や衝動みたいなものがどんどん脱色されてしまっていて、正常という立ち位置から語れることは限界があるなぁ、、、と思う次第」

「まぁ、感覚はわからなくもないんだけど、その疑問じたいが少しずれている気もする。木村敏がやろうとしていたことは、それらの仮構が日常的に成立する構造そのものを問うことだから」

「というと?」

「君の言う通り異常とか正常とかはもちろん仮構なんだけど、日常生活を支える正常的とされる世界観とそこに陥入してくる異常的とされる世界観の成立過程、〈それらがそのように仮構される過程そのもの〉をそれぞれ問題化しているんじゃない、彼は」

「ああん」

「だからこそ、日常のうちに浸透している〈常識〉から先に問題化している。〈常識〉について掘り下げるというところを出発点として、まず、正常を相対化している。虚構としての正常(合理性)、みたいな感じで」

さて私たちは、私たち自身がふだん住み慣れている常識的日常性の世界とはちがったこのもう一方の世界、分裂病性の精神異常においてはじめてその秘密があかるみに出てくるようなこの反常識の世界の構造を、いますこし明確に規定しなければならない。そのためには、さきに述べたように、私たちは私たち自身の側の常識的日常性の世界の自明性に埋没していてはならない。私たちは、そこでは常識的日常性の世界もまた可能ないくつかのありかたの単なる一つのケースにすぎなくなるような、常識と反常識とをともに包みこむような、より広い論理構造の視点に立つ必要がある。

(木村敏『異常の構造』p106,107)

「つまり、ちゃんと自然的態度を相対化して異常を主題化できるようにした上で、正常/異常が成立する場面へと遡ろうとしている、と」

「全体的な道筋としてはね。最後まで読むとそれがよく分かる」

現象学的だね*2

「小学生みたいな感想ありがとう」

「でも、やっぱり気になるな。こういう風に真面目な論理を展開しようとすればするほど、正常に留まらざるを得ないのに、どうして仮構以前に遡ることができるのだろう」

「厳密に言うと少し違う。木村敏仮構以前に完全に遡ることができているわけではなく、そのように思い込んでいるわけでもなく、君の言うようにあくまで正常の側から降りられないまま、でも、その位置から仮構以前を辛うじて垣間見ようとしている、くらいの感じだと思う」

「なるほど。確かに、ところどころ、苦しんでいるからね。最後の方特に*3。」

「その辺の苦しさにもちゃんと向き合いながら書く、誠実さがある。異常に寄り添おうとする上で正常を相対化するんだけど、でも結局は正常から離れきれないことを自覚している、そのジレンマをちゃんと書こうとしている」

「なんかベタ褒めし始めたぞ」

 

 *

 

「ところで、木村敏の異常性論は、分断という仮構に対する態度を示す議論でもあるよね」

「なんの話だ」

「生活において正常/異常が概念として確かに成立してしまっているとして、そこに横たわっているどうしようもない断絶とどのように向き合うか。木村敏は異常性に対して排除の意思や差別的価値観で向かい合うのは粗暴な態度だと戒めるわけだ」

…妄想は一般的には「病的状態から発生する判断の誤謬」と定義されているが、この患者の述べていることが常識的な考えかたからみて「判断の誤謬」であることはいうまでもない。

しかし、このようにいってしまったのでは、患者の言葉を手がかりにして、患者の中になにがおこっているのか、患者がどのような事態の中におかれているのかを理解しようとするいっさいの努力は道をとざされてしまうことになる。私たちの当面の課題は、常識からの逸脱、常識の欠落としての精神異常の意味を問うことにあるけれども、これはけっして常識の側から異常を眺めてこれを排斥するという方向性をもったものであってはならない。私たちはむしろ、現代社会において大々的におこなわれているそのような排除や差別の根源を問う作業の一環として、常識の立場からひとまず自由になり、常識の側からではなく、むしろ「異常」そのものの側に立ってその構造を明らかにするという作業を遂行しなくてはならない。そしてこのことは、ただ、私たちが日常的に自明のこととみなしている常識に対してあらためて批判の眼を向けることによってのみ可能となるのである。

(『異常の構造』p104,105)

「繰り返しになるけど、この『「異常」そのものの側に立って』ということがどのように可能になるのかがわからないのだけれども」

「ここでは第八章で展開されているように、常識の存立構造(第七章)を踏まえて、どのようにそれが綻ぶのか、〈異常とされるもの〉がどのような論理で成立しているかを詳らかにしていく、一連の論理作業を意味している。常識側に居直るのではなくて、〈異常とされるもの〉にできる限り寄り添っていく…くらいのことを指しているのでは」

「それが、異常そのものの側に立つ、ねぇ」

「まぁ、たしかに言葉が強すぎる感じはあるが、大事なのはそこじゃない。そこで前提されている態度だ」

「聞いてあげよう」

「〈ここから見て異常とされるもの〉はそれが幻想とはいえ、一度仮構されてしまえば(=異常なものとして見られてしまえば)バカ遠い〈あっちがわ〉として現象せざるを得ない。自分の信じる日常の生活体系からすれば遥か彼方に離れていると言っていい。その対象は犯罪者でも精神病者でもオタクでも何でも良いが」

「その巨大な心理的距離に対してどのような態度をとるか、ということね。我田引水感がすごいけれど」

「そこで常識的な価値観に埋没したまま、『気持ち悪い』『怖い』『見たくない』と異常性から顔を背けても良い。理解のできない行動をとる者に対して、『あんなの人間じゃない』と簡単に結論づけても良い。断絶に対してそういう態度をとるのはとっても楽だ。だけど、別の態度のとりかたもある」

「我田引水に熱が入ってきた」

「それは断絶を見つめ直してちゃんと受け止める態度だ。そこに距離がある、埋められない決定的な差異がある、ということをほんとうに理解しようとする態度*4。距離がある、とか、差異がある、ということをほんとうに理解するためには、一度自己を相対化してブレさせて、他者の論理空間へと身体ごと飛んでみる必要がある。偏見や排除によって無視したり踏み躙るのではなくてね」

「そんなこと、著者は言ってたかなぁ」

「言うんじゃない。態度で示すわけだ。書く、考える、という実践で」

しかし、私たちの周囲にいる多くの「狂人」たちが、まるで話の通じない、何を考えているかわからない、不気味な存在として正常人の眼にうつるのは、実はこのいわゆる正常人の側で、彼らの内心の声を聞こうとしないから、あるいはそれだけでなく、彼らを正常の社会から排除して、彼らに発言の場を与えないから、つまりは正常人が自分たちの「正常性」のみを唯一の「合法的」なありかたと思いこんでいて、彼らと同じ立場に自分を置いてみようとしないからだといわねばならぬ。

(『異常の構造』p89)

 

 *

 

「わかった、ということにしておこう。差別現象は断絶に対して不適切な態度しかとれない関係性から発生する*5、と君はよく言ってるよね」

「断絶の存在論/認識論については改めて基礎づけてみたいけれど、その前に考えなければならないことがたくさんある」

「断絶に対して適切な態度をとって、他者とのコミュニケーションをとり続けた場合、次第に距離感がバグって断絶そのものが感じられなくなっていくかもしれない、とか?」

「ああ、もちろんそれはあると思うんだけど、そういう自他境界が曖昧になったところから〈私〉を取り戻す過程で結局断絶に戻ってくる場面があるんじゃない?レヴィナスのイポスターズ的な」

レヴィナスはよくわからんが」

「とにかく、もともと断絶というのは〈自ー他関係〉とか〈正常ー異常〉みたいなある種常識的な二項対立的認識に内在するものだから、ふつうに生活していれば常に横たわっているものだと思う。二項対立を全部解いたから断絶を一切感じませんよ、というのはありえないのでは」

「断絶を忘却し続けることはあるかもしれないけどね。それも断絶に対する不適切な態度の一つだろう。しかし、木村敏から離れすぎだね」

患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言い表しているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。

(『異常の構造』p140) 

これはむしろ、私たちの思考能力のいちじるしい狭さと偏りとを示すものにほかならない。「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇跡的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない。

(『異常の構造』p141)

 

 

 

 

まとめ

日常的に仮構された〈正常/異常〉という分断を前にしてどのような態度をとるか。

・「差別」「排除」という現象を、まず「分断を踏み潰す態度から生じる現象」として捉える。正常/異常という概念を仮構したうえで、その間に横たわる巨大な心的距離の途方もなさに対して、「怖いし、どうでもいいから、なかったことにしよう」と無視しようとする態度。これを不適切なものとして棄却する。

木村敏の『異常の構造』における思考/著述実践は、「分断に向き合い、その構造そのものに迫っていく態度」を前提している。その「距離」の成立自体を問う姿勢。もちろん彼は、その「距離」が人間の理性によって生み出された虚構であることはわかっている。日常のうちで「対象を〈異常〉と判断する」うえでの根拠となる「合理性(つまり我々の正常性)」がそれ自体虚構であることを、木村は本書の全体で指摘している(特にp13-18,p180)。しかし、同時に、彼は自らが〈正常〉の側から降りることができず、精神疾患などの現象を〈異常〉として認識せざるを得ない現実もまた、認める。つまり、正常/異常の分別は虚構であると看破しながらも、その虚構に立脚したうえでしか生きることができないというジレンマを抱えている。そのジレンマを抱えたまま、その現実から降りることなく、その現実の成立それ自体を問い、そのように「距離」が生まれてきてしまうことを深く理解しようとする。

・もうひとつ別の態度として「分断を解体し距離を見えなくさせる(脱構築する)態度」も当然あり得る。つまり、正常/異常という対立軸を「不要な分断」として抹消し、別の見え方を模索する態度。木村の言う通り、正常や異常という概念は虚構なのだから、本来そのような言い方は捨てて(二項対立を解体して)別の語り口を探すべきだ。しかし、我々がそのような虚構を既に生きてしまっている限り、簡単に捨ててしまうことはできないようにも思われる。そのように矢継ぎ早に脱構築して解放されようとすることは現実的ではない。それは現実感を伴って感じられている、いまここにある断絶を「なかったことにする」態度と紙一重である。我々は確かに、そのような「断絶の感じられない」「虚構以前」の自然性へと向かうべきではあるが、それはあくまで「最終的に漂着すると想定される地点」であって、その地点には慎重に、この現実感を捨てずに済む道を右往左往しながら向かうべきだと、僕は考える。

木村敏は本書において、その自然性を強く夢に見ながらも、しかし自らが〈正常〉から降りられないことを強く自覚しているから、せめて、〈正常〉という虚構が生まれ〈異常〉が成り立ってくるその起源を「垣間見る」ような仕方で、自らのジレンマを辛うじて調停しているように見える。そのようにして現実と向き合っていく一つの態度を抽出しておきたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:

宮子 例えば障がい者を当事者って置き変えているかのような使い方があるじゃないですか。

西村 私はその使い方はあまりしない、というか……。

宮子 私も違和感があって、当事者って別に患者さんだけではなくて(略)それぞれにその状況の当事者なんだよね。状況というのは、選ぶものではなくて、なりゆきによって巻き込まれる部分がありますよね。

(略)

西村 看護師だって患者さんのことが気になればもうその状況に巻き込まれているので、ある意味当事者なんですよ。患者さん一人だけを、問題を持っている個人だけを周りから切り離して当事者だっていうふうに私は捉えたくない

宮子 私も、すごくそれは誤解のもとじゃないかと思うんですよ。「当事者の気持ちをわかれ」みたいに言われると、本当はみんなのことをわかったほうがいいよねって思うわけ。

編集部 弱者という言葉の持つ力関係を避け、主体性とかエンパワーという文脈で当事者を強調すること自体は「正しい」んだけど、結果としてかえってある種の線が引かれちゃう恐れがあるってことでしょうか。

宮子 そうそう、そうなんですよね。

西村 いわゆる「当事者」以外は関係なくなったり、その「当事者」だけが議論をする権利を持てるような構図ができるとしたら、状況の理解自体を難しくしますね。

宮子 わかってもらうことの権利化って間違っていると思うんです。それは誰にも平等な「恩寵」みたいなものなんですよね。

 

(西村ユミ編『対話をめぐる現象学』p35,36) 

*2:我々の生を支える「現実性」がいかに成立しているかを求めて、知覚行為について議論するp150以降の箇所は特に「現象学的還元」を理論的基礎として据えていることがわかる。現実性は対象存在の構造に属するものではなく、また、客観性と呼ばれるものも「想像上の観念に過ぎない」(p153)とし、「私たちにとって現実的に「ある」といえるもの、私たちが「ある」という言葉を用いるときに本当に言いあらわそうとしている体験内容は、…私たち自身の知覚行為の中から生じてくるものなのである」(p153,154)とする。

*3:

…だからといって私たちはどうやって常識的日常性の立場を捨てることができるのか。それはおそらく、私たち自身が分裂病者となることによる以外、不可能なことだろう。私たちは自分が「正常人」であるかぎり、つまり1=1を自明の公理とみなさざるをえないでいるかぎり、真に分裂病者を理解し、分裂病者の立場に立ってものを考えることができないのではないか。

(『異常の構造』p178,179)

私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか。

(『異常の構造』p182)

*4:断絶それじたいを「なかったことにする」こともできる。そもそも正常/異常などという線引きは違う、と。それはそれで正しいし、本当はそのように認識を解放してゆくべきだが、矢継ぎ早に脱構築していくのではなくて、いま目の前に既に横たわってしまっているものの存立それ自体を問う、という回り道をすることもできる。いま見えてしまっているものに立脚する。いまの現実感を捨てずに詰めていく。ここはもう感性でしかないけど、僕はそっちのほうが誠実に感じる。脱構築には時々置いてかれているような感じを覚える。

*5:

差別語を問題にすることは、差別語においてたまたま露出してくる関係の実質に切り込むための糸口としてのみ重要だ。

(真木悠介『気流の鳴る音』p26)

啞者のことばをきく耳を周囲の人がもっているとき、啞者は啞者でない。啞者は周囲の人びとが聴く耳をもたないかぎりにおいて啞者である。啞者とはひとつの関係性だ。

(同書p29)