すれ違う栞の束と
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また目眩が来る。魔法をかけられて、なにもカメラに映らなくなる。
焼け焦げた牛の頭蓋を脳天から叩き割っている男たちがいる。小学生くらいの子どもが切り分けられた山羊の内臓をせっせと持ってきて、ブルーシートのうえにばら撒く。ここで犠牲になった動物は村のみんなに分け与えて、必ずみんなで食べる。どこか別の場所で売り捌くことは許されないという。解体現場のモスクのすぐ近くでは、女の子たちが缶のない缶蹴りのような遊びをしていた。
シャッターを切るときの、たまらなくなって履歴を手放すと水滴が重なって画廊の床に落ちる。私は横から見ている、彼女が仮設する関係性とその反復から、
自分たちの経験を無根拠に肯定するときのほとぼり。
ジャカルタのアート・コレクティヴに手を振って、車に乗り込んだ。メッセージはいつも届いているんですよ、我々が気付いていないだけでね。あのひとも本当は待っていたんじゃないですか?本当は喜んでいたのかもしれないですね!真っ白で輝かしい解釈が助手席から、隣から、飛び交う。
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実家のアップライトピアノで一昔前のボカロの伴奏を探り探り弾いていると、妹が近寄ってきて声を乗せ始める。僕も楽しくなってそこに自分の声を重ねると、粒となって散らばっていた神様みたいな感情がいきなり身体の孔という孔にぐわーーーっと流れ込んできて、叫んでしまいそうになった。なんとか堪えて、それが声になっていく。
スマホでひらいたコード譜を右手でスクロールする。左手は粗末なリズムを刻む。
並ぶいくつもの遊具に掠れた三原色と、常に微細に失い続けているのだが、霧散していくそれは全く気付かれない。
「ごめんなさい、残って欲しいとはどうしても思えなくて」
散らばっている欠片は時折、目を細くしながら入江に沈み込む。営みは還っていくようにして、海に流れ込む。
忘れてしまうと思います。
ベチャに乗り込んで、次の知らない場所へ行く。風景の層をなぞりながら駆け抜けている。バイクのエンジン音と風の音に負けないように、ひととき、隣に座っている彼女の声が少しだけおおきく、高くなって、また元の角度に戻る。だんだん、真っ白に解釈された海が見えてくる。
ブーゲンビリアの燃え立つ浜に居て、蚊取り線香が千切れていくにおいを纏う。
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「すれ違う栞の束と」について
日本の各地に散らばる生活者の撮った〈写真〉と僕がインドネシア滞在中(7/9-30)にかいた〈散文詩〉をコラージュし、ひとつの作品として構成します。
写真について
数名の生活者から「撮ってしまった」ものを送ってもらい、本人の希望するキャプション(一言メモ)を付して栞のように挟み込んでいます。高倉がインドネシアで撮影したものも含まれます。
写真で参加する方法と詳しい制作背景は以下のファイルを参照してください。
生活という現象の「読むことを拒みつつあらわれる」動きはどのように表象化し得るか、という問題に制作行為を介して取り組んでいます。