波頭

束の間、淡く残ることについて

fieldnote 「動物園で見つめる先に、」「土地をぬう道、ヤトがくる」

 

 

黑田菜月「動物園で見つめる先に、」(SARPspaceA)

動物たちを主役としてそのまま直接撮るのではなく、「動物を見る/撮るひとたち」や「動物に祈るひとたち」を撮る、という階層的な構図の作品群。かと言って、じゃあヒトが主役になっているのかというとそんなこともなく、小動物の動き回る筒状の空間の向こう側で少年が解説板を読んでいる作品もある。その作品では動物のほうが位置的には前面に来ているのだが、とはいえ分かりやすくそこに焦点が当てられているのではない…というように一筋縄ではいかない。
要するに、動物・ヒトという個的対象をすり抜けて、あくまで来園者が動物に向けるまなざし、そこでほんのひととき意識が向く、非人間的なものを想像する、という行為のあらわれを撮っている。

来場する前は正直のところ、動物園に来る客のふるまいや展示空間を撮影して残そうとした記録的な意味合いが大きいのかな、程度に考えていたのだが、実際に展示をみてみると動物-ヒトの二項への視線をほどくような方法論が迫ってくる。映像モニターと椅子があるスペースには金沢動物園の飼育員の方が制作した「足留め」が置かれている。それはまるで鑑賞者を「鑑賞されるもの」へと変換する装置のようだ。ここでも二項の関係はほどかれてしまう。

会場内で上映されていたインタビュー映像では、来園者が動物について語る声だけではなくて、自らのアイデンティティについて語る声も収められていた。問いかけに対して言い淀み、「あ、そうか…」「そういう言い方だと…」と言葉を選びながら説明した語り手に対して、聞き手である黑田さんが「いま存在していることばではトランスについて十分に説明できないんだ、ということがわかりました」というようなことを言っていたのが印象に残った。わからなさと対峙していくうえで、まず説明してくれたひとに応答しようとする作家の誠実さを、このちいさなシーンに受け取ったように思った。そのあとに語り手の二人が、それなら良かったですと笑うところ(これはもう確かな記憶ではなくて、僕が存在しないシーンを想像で補完したのかもしれない)まで含めて忘れられない。

 

※日程が合わず19:15からの上映会には参加できませんでした。

 

阿部明子「土地をぬう道、ヤトがくる」(SARPspaceB)

平面作品を展示する空間では、鑑賞しやすいように目線の高さに作品が置かれていることが多いが、この展示では空間の下半分に作品が集中しており、鑑賞するためには最低でも腰を曲げるか、しゃがみ込むことが前提となっている。自然とからだごと展示空間に参加してしまうような、鑑賞者への負荷のかけ方。からだの動きが鑑賞行為に組み込まれて、体験の奥行きが生まれる。

例えば、5歩あるくごとに「カクエム」という人の家に向かって写真を撮る、という行為を繰り返した作家のからだの動きに、しゃがみ込んで石を持ち上げ写真を見つめてみる、という行為を繰り返す僕のからだが、時と場所を超えて応え合っているような気がしてくる。
直接お話したとき阿部さん本人も「不思議な縁」だと仰っていたが、確かにへんてこなきっかけでカクエムの家について知ったあと、異様な執念で「何かに追いたてられて」解体工事中のカクエムの家に入り込んでまで文献や写真を集め、さらに、おそらく消耗の激しいであろう今回の撮影行為が行われた。それはカクエムという屋敷や庭それ自体が特別に作家の心を捉えたというよりも、今まさにそれが失われつつある状況との遭遇が作家に切迫感のようなものを注ぎ込んだのだと思われる*1

「基本的に生活のなかで起きたことから制作がはじまる」というような話をされていた。生活のなかから、何かに巻き込まれるようにして制作がはじまる。そしてまた、作家が歩きながら900枚以上の写真を撮って一枚一枚ブロックに貼り付け、ドミノのように整然と並べていく、その異様な行為のうねりに巻き込まれるようにして、僕たちも、しゃがみ込んでブロックを持ち上げ、写真を見つめて歩くのだ。

 

*1:会場で配布されたステートメントペーパーには次のような記述があった。

東京から住まいを移して3年で、その土地は見る間に姿を変えていきました。そして、前からずっとソレは続いていて、とまることはないのです。

「カクエム」の家があったということについて。大きな資本による開発について。引いては、このコロナ禍と世界情勢の中での大きな力について。私はずっと考えています。

あくまで、失われるということが長いスパンで、さらに広く様々な事象において起こっていることを、阿部さんは常に意識している。巨大な資本という力によって、いや資本に限らず国家権力や災害などのひとりの力ではどうしようもない大きな力によって失われていく、様々な現在進行形の喪失への感受性を下地にして、とりわけ「カクエムの家が失われていく」という生活圏内の喪失との出会いにからだが動いたのではないか。