波頭

束の間、淡く残ることについて

fieldnote 在廊というパフォーマンス

 

20221002 在廊@ギャラリーチフリグリ

カリンバと詩とframeと星空@喫茶frame/星空カフェ

 

いっぱい栗!!!ユーモラスな引き継ぎ

10月2日。今日はアンパンのパフォーマンス会場で司会をやることになったいのうえさんの代わりに、チフリグリに在廊する。

僕のシフトは12時半かららしいが、お昼ごはんを用意してくださっている(大変ありがたい)とのことなのでかなり早めに、11時40分くらいに会場に着く。が、水玉カフェは12時から開店することが発覚する。「そうだったっけー」と笑いつつ、とりあえずローソンでアイスコーヒーを買う。

チフリグリに入ってみると午前から在廊している齋藤健一さんがいる。「はじめまして、滴々の高倉です」と自己紹介すると、「ここで個展やってましたよね。行きましたよ」と言われて驚く。全然覚えてなくて申し訳なくなる。

簡単に引き継ぎをしてもらう。最後に「STAFF」と書かれた首飾りを渡される。いのうえさんがLINEで「居心地が良くなるかもしれないグッズ」と言っていたやつだ。齋藤さんが「これ、実はケースのなかに3枚紙がはいっていて。それぞれ文字の太さが違うんです。好きな太さのやつを先頭にしてください」と説明する。齋藤さんは一番太〜い文字のSTAFFをつけていた。僕は身体が細いので、一番細〜い文字のSTAFFをつけてみる。これはなんか、超良い。あとでかくらこうさんに同じ説明をするのがものすごく楽しみになってきた。このことを、いちばんちゃんと引き継ごう、と思った。

 

いまやっている制作のことなどをしばし話していると、ギターケース(その中身はギターではなくてバンジョーであることが後に分かるのだが)を背負った男性がいらっしゃった。ひととおり作品を見てから会場の外にある足踏みオルガンに興味を示していたので、「こんな感じで音が鳴りますよ」と弾いてみせる。弾きながら、このひととはどこかで会ったことがあるな、と思う。どこかで、っつーか、昨日長町で見たんでねーべか!?と気付いて、昨日長町駅前に居なかったかと尋ねてみると、居ましたと言う。僕は昨日、アートインクルージョンの企画で長町駅前にベーゴマ・めんこ教室を発生させていた。全く知らないひとと偶然、二日連続で同じ場所に居合わせることになったのだ。まぁ、それはたいしたことではないので置いておいて、彼はここに立ち寄る前は鉄道フェスなるものに行っていたらしい。その流れで、ここ(チフリグリや水玉カフェのある建物)が前は駅だったんじゃねーかな*1、と言って東口開発前の仙石線の話になった。

昔は「西口」なんてことばは無かったんだから。じゃあ、なんて言っていたんですか?「駅前」だよ。ただの「駅前」?うん。じゃあ、「東口」のことはなんて言ってたんですか。「東口」は「東口」だな*2。へ〜。

 

話し込んでいたらもう13時になっていたが、齋藤さんに「たべてきて良いですよ」と言われたので水玉カフェに入る。席に座って本を読んでいると、お客さんが入ってきてカウンター席に座る。「こんな時間なのにもう駐車場は満車だよ」「楽天?ナイターじゃなかった?」盗み聞きしていると「あんた、サーカス(なんでサーカスが出てきたか忘れた)は良いから、作品を見てきなよ」「なんかやってんの?」「アンデパンダン展。みんなすごい上手いんだから…」そのひとは「見ても分かんねぇよ。俺は美的感覚が無いから」と言いながら席を立って、チフリグリ会場へ入っていった。美的感覚ってなんだ…そんなものあるのか(というか要るのか)…と思わず笑ってしまう。笑っているところを見られていたので、「常連の方ですか?」と店員さんに聞いてみると「学校の先生なの」と僕に説明する。「うるさいから追い出しちゃった」と言ってみんな笑う。

しばらくして帰ってきたそのひとは「草の生い茂っているやつが面白かった」と言った。みんななにか訴えたいことがあるんだね、と話す。作者の意図とか訴えたいことが分かると面白い、俺でも理解できるよ、私こないだ写真の先生がやっている展示を見たけどすごく難解だった、抽象的なのは俺わからないな、抽象的で難解なのはちょっとね…と会話が続く。作品にはなにか意図がある、訴えたいことがある、それを理解するのが鑑賞だ、というのは僕が幾度となく「そういうものもあるけど、それだけじゃないんじゃない?」と言ってきた*3素朴な芸術観だ。ここで「分かる」「理解できる」と言われてしまっているものは、いったい何なんだろう。

「作者の意図」「訴えたいこと」なるものを仮想させてしまう力、「わかりたがってしまう」欲望が存在しているように思うが、それはいったいどこからやって来るのか。僕はむしろ、最近、抽象的な作品のほうに惹かれているんですよ、と勝手に脳内で会話に参加する。

 

食事を終えて、チフリグリに戻る。齋藤さんとバトンタッチする。すぐに一人、穏やかに会場に入ってきて作品を見始める。僕は「こんにちは」とだけ言って本を読んだり作品を眺めたりする。ちょっと経ってからそのひとに声をかけられて、栗がたくさん入ったビニール袋を渡される。さっき本人に渡せなかったので、渡してください、とだけ言って去っていく。いのうえさんにLINEで報告しようとするも、そういえば名前も聞いていなかった。でも、どこかで見たことがある。芳名帳を覗き込むと「せん」と書いてある。せんさんだった。またも、挨拶ができなかった…。(しかし、そもそもなんで挨拶しようとしているのか?)f:id:taratara_miztak:20221010003642j:image

水玉カフェで食事をして帰ってきた齋藤さんにそのことを話すと「せんさんはクールな人なんで」と言われる。クールな人。なんだかシンプルすぎる説明だが、のちに齋藤さんがせんさんの熱烈なファンであることが発覚する。

 

展示という制度・「触りたくなる」という発芽

いのうえさんはいまパフォーマンス会場にいっているわけだが、僕がここでこうして「ただ会場にいる」ということも何かしらのパフォーマンスなのではないか、ということを漠然と考え始める。そもそもパフォーマンスってなんだ。

木彫作家の松浦さんがやって来る。僕は失礼にもまったく存じ上げなかったのだがちょっと前に中本誠司現代美術館で個展をやったと言う。そんな話をしていたら中本の館長・今野さんもいらっしゃった。続いて、行く先々のギャラリーやイベントで遭遇する間瀬さんもいらっしゃって、「どうもどうも。こんにちは」「お久しぶりです」「また会いましたね」が四方八方から飛び交いはじめる。

間瀬さんが齋藤健一さんの作品をみて「絵を描く人なんですね」と言ったのに対して斎藤さんが「これから絵を描く人になろうと思ってます」と返していたのがとても良かった。

今野館長が「昨日中本に前橋のアーティストが視察に来たんだけど、彼の乗っていた軽トラがすごかったんだよ」と写真を見せてくれる。軽トラの荷台のところが家になっている。「すごい!!」とみんなで覗き込む。

 

出展作家のひとり、ナガモトさんの作品について。

 
 
 
 
 
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刺繍のうえに17体のミニミニフィギュア(鉄道模型のフィギュアらしい)が散りばめられている。作品のとなりに豆本が置かれていて、そこにはフィギュアたちの物語が書かれている。

ある来場者がナガモトさんの作品を眺めて、本を開くことなく通り過ぎようとしていたので、「この本は手にとってご覧いただけますよ」と思わず声を掛けてしまった。声を掛けてから、しまった、と思った。そのひとが時折声をあげて笑いながら(フィギュアたちのパーソナリティがやけに細かくリアルに作り込まれていて面白い)本を読み終わったタイミングで、もう一度話しかけてみる。

「この本、触って読んでみようとは思わなかった?」

「そうですね。高倉さんに言われなかったら読まなかったと思います。触ったらダメなのかと思ってました」

展示空間には「(ふつうは)作品に触れてはいけない」というコードが仕込まれている。これは僕たちの今回の作品にとっても重大な問題だった。

 
 
 
 
 
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会場に本(のようなもの)を置く、と決めたとき、まず考えたことは「どうしたら本を手にとって読んでもらえるか」ということだった。別に読んでもらえなくても良いが、読んでもらえる可能性も確実に担保したい。
グループ展では当然他の制作者たちの作品がたくさん展示されているわけだが、そのほとんどが「触ることができない」作品である。少なくとも「触ろうと思わない」「触る必要がない」作品ばかりである。触ったら壊れてしまうかもしれない、キズをつけてしまうかもしれない、どうしても触らなければならない理由もないしただ見ている方が楽だ等の心理的なハードルがあって、作品に触るという動きは生まれづらい*4。その展示空間の制度的な拘束を緩めて、なんとか本を読む動きを誘発するにはどうすれば良いか。

キャプション(説明)を置けば良い。簡単な話だ。しかし、ただ「読んでもいいよ」とだけ書いてあるモノを作業的に設置すると、どうしてもノイジーになってしまう。せっかくそれは「読まなくても良い」のに。作品に出会う、という途方もなく自由で訳のわからない体験を、「お手に取って御覧ください」みたいなつまらない説明的なことばで邪魔したくない*5、とどうしても思ってしまう。
読んで欲しいのか、欲しくないのか、どっちだよ、という感じだが、どちらも起きて欲しい、というのが本当のところだ。とにかく、なるべく説明で誘導したくない。(だからさっき、読むことを促したときに「しまった」と思ったのだ。)そうではなくて、思いがけず手に取ってしまった、気がついたら読んでいた、を引き出したい。鑑賞者の身体をこちらへ動かしてしまう仕掛けを、作品に組み込みたい。むしろ、それこそが制作なのではないか。

展示の制度を揺さぶり動かし、つくりかえること。

 

(ちなみに、僕たちは今回虫眼鏡というアイテムを置くことで「読む」動きへとアクセスする通路をつくった。ナガモトさんのように僕たちも豆本を一緒に作って添えていたのだが、そこに書かれている文字は小さすぎて読めない(ハズキルーペのCM風)。豆本の文字を読むための虫眼鏡なのだが、豆本に限らず作品全体を「読む」行為を無言でaffordしている。虫眼鏡が何のためにあるのか、読むためかしら、という風に無意識的に計算させている。
…というのは、実は最終日前日に妹に言われて気付いた。最初、僕たちは悩んだ末に椅子を置いてもらおうと試みていた。去年アンパンに手製本を展示したmariさんに聞くと、「会場判断で椅子を置いてもらえた」と仰っていたから。搬入当日に会場側に相談したのだが、さすがに遅すぎた。初日に見に行ってみると椅子はなく、「お手にとって御覧ください」というキャプションが丁寧に置かれていた。もちろん、こちらの説明不足、コミュニケーション不足の結果である。それにしても、椅子を置く、というのはなんて優しく、慎ましいaffordなのだろう。
あと、mariさん曰く、本の近くに消毒液のボトルを置いてもらった、らしい。なるほど、そうすれば「触っても大丈夫だよ。でも触るなら消毒してね」ということを無言で伝えられる。少し誘導が強いような気もするが。)

 

僕が以上のことをかいつまんで説明しているあいだ、何も言わずに聞いてくださったそのひとは、最後に「ナガモトさんの作品、この本に書いてある物語を読んでからもう一度見てみると、刺繍のほうに触りたくなりますね」と仰った。物語は作品世界を急速に愛おしくさせる。
物語のミクロな具体性は、制作者が糸を扱って世界をつくっていく連続的な手作業の具体性に自然と繋がっていく。だから、物語を辿ってから刺繍作品に向き直したときに、途端に作品を近く感じる。ちいさいフィギュアたちが立っている世界を俯瞰する位置にいたはずの鑑賞者がいつの間にか世界に入り込んでいる。そのときに「触りたくなる」という心の動きが生まれる。

 

そのほか、在廊中にチフリグリ会場の作品をみてメモったこと↓

  • 孑孑さん 見ているうちに波の動きがせり上がってくる。時間的な絵画(映像的?)。
  • 齋藤健一さん 要素のそれぞれは具象なのに(鯖や標識や手)、構成された全体としては抽象的。それは「浄土」という場所の観念性と絡んでいる。例えば、浄土における道路標識は、指示しないシンボル、指示対象なき記号。浄土には交通が無い(無くても良い)から。この「指示している(ように思われる)のに、指示対象がない」という特徴的な事態が絵のうちで発生している。
  • 杜野リカさん 図と地の反転を作品中に埋め込んでいる。「春風」というタイトルから、鑑賞者が「図」として認識したくなるのは風のように流れている「空白」の部分である。ということは、そのとき「地」になっているのは逆にもっとも書き込みが厚い部分(絵の大部分)になる。書き込みの多い箇所を「地」として後景化させてしまう書き手の感覚。

 

在廊というパフォーマンス

「写真を撮って大丈夫ですか?」とよく聞かれる。分からないので確認をとろうか、でも何も言われてないし何処にも撮影について説明は無かったよな、などと考える前に「あぁ、大丈夫ですよ」と言ってしまっている。大丈夫なのか、果たして。

 

あっという間に時間が過ぎて、次の留守番役であるかくらこうさんがやって来る。さっきアナランに行ってきたところだと言う。僕たちの作品も見てくださったらしいのだが、感想などを述べるよりも先にこのような質問をされた。

「高倉さんにとって日常って何なんですか?」

質問の意図がわからなかったので、日常ということを考えるときに必ず頭に浮かんでしまう「震災と日常/非日常」のことをやはりいつもどおり上手く纏まらないまま喋り散らかす。日常と非日常は主体の感覚によって分別されるもので、結局のところひとつの生活のなかに折り重なっていて、ときおりそれが反転(転調)するだけだ、だから「一瞬にして日常が崩れ去った」「日常がかえってきた」などの表現はなにかしっくりこない、という感覚についての話なのだが、かなり的外れだったらしく、もう一度丁寧に説明される。

「いのうえさんから『日常のなかで撮った写真を送って』と言われました*6。ですが、ここで言う『日常』がよく分からなくて送れませんでした。だって、わたしの日常は高倉さんにとっては非日常ですよね。同じように、高倉さんの日常はわたしにとっては非日常であるはずです」

と大体そういう内容の話だった(細部が間違っていたら申し訳ありません)。この話を聞きながら、目の前のひとを自分が心の底から信用し始めるのを感じていた。こんな風にことばをちゃんと批判している(し慣れている)ひとと久しぶりに話している気がする。嬉しかった。

僕もかくらこうさんが仰っていたようなことを考えていて、だからこそ『すれ違う栞の束と』のステートメントでは「日常」ということばはあまり使わず、「生活」ということばを使っていた。さらに言えば、「日常/非日常」を語ることそのものに対する抵抗を込めて、この制作をはじめたつもりだった。

 

それから本のことなどぺちゃくちゃ喋っていると、「こんにちはー」と群馬のアーティストの方々がやって来た。ということは…?

なんとさっき写真で見た面白軽トラックがすぐそこに停まっていると言う。かくらこうさんに「見に行きましょう!!」と言って、二人してギャラリーを出る。在廊放棄。駐車場で「すげー!!」とはしゃいでいる僕に、そのトラックを制作した長竹さんが色々と説明してくれる。


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これは水澤先輩に見せねば、と写真をパシャパシャ撮った(今度は僕が「写真を撮っても良いですか」と聞くことになりました)。運転席のドアにたくさんステッカーが貼ってある。Youtuberとコラボしたときにもらったとかなんとか。出演動画がバズったおかげで、行く先々で色々な人に声を掛けられると言う。

「ここで毎日寝泊まりしています」

「ご飯とかお風呂は?」

「ご飯・お風呂は家で済ませて、寝るときだけこの車に戻ってきます」

その生活じたいがプロジェクトアートみたいだ。

ギャラリーに戻ってきて、アンデパンダン展のはなしをした。いま前橋でアンデパンダン展ができないか考えているとのことで、とにかく初めての試みだから苦心している、開催するうえで会場ではそれぞれどのような問題が発生するのかを尋ねてまわっている、と話していた。

「前橋は仙台に比べれば田舎なので、まだ権威主義的な風潮が残っていたりします。理解を得られるかが問題ですね」

まったく参考にはならないだろうけど、仙台のギャラリーどうしの繋がりについて薄く話した。2年くらい前に芸術人類学者の石倉敏明さんが「仙台には文化的生態系がある。それが貴重だと思う」と仰っていた。民間のギャラリーの連携によって開催されているアンデパンダン展は、仙台の文化的生態系が毎年かならず浮かび上がる祝祭である。たまにギャラリーを巡っていくと同じひとと何度も出くわして「また会いましたね」と笑ってしまう。あっちのギャラリーで個展をやっていたと思えば、今度は別のギャラリーで同じ人がグループ展をやっている。展示巡りがいつの間にか、文化的に彩られた街歩きになっている。
前橋でアンパンが行われたとき、前橋固有の文化的生態系(きっとあるだろう)が同じように浮かび上がると良いな、と思う。

かくらこうさんにバトンタッチして僕は会場をあとにする。

 

武田こうじさんのポエトリリーディングと創作カリンバ工房さんの演奏を見聴きしながら、さっきまでの在廊行為を思い出していた。喫茶frame/星空カフェとギャラリーチフリグリのあいだに身体があるような感覚だった。

いま、目の前で起きているパフォーマンス。パフォーマンスという捉え方の発生は、要するに認識態度のズレそのものだ。絵画や彫刻や詩やメロディー、表情、ひと、ことば、そのような個的対象の「形態(客体)」ではなくて、それが「生成されている過程」へと認識枠組がズレていく。そのズレ込み、プロセスの主題化、あるいは参加、没入、それらの認識態度の変更を僕は広い意味でパフォーマンスと呼びたい。

開演前の雑談のなかで武田さんが「書くことによってclosedになる」と仰った。書くことで一旦完成して満足してしまう。書く、というパフォーマンスを終えたとき、形態は固着する。しかし、それをいま、武田さんは「肉声にする」。詩を再びパフォームする。それはたぶん、ポエトリーリーディングでも良いし、展示でも良い。何か別のかたちに編み直すことでも。

 

ただギャラリーにいる、ということは驚くほどパフォーマティブだった。来場するひとたちが作品に出会い、なんだこれと立ち止まったり、思わず笑ってしまったり、通り過ぎたり、「写真を撮っても良いですか?」と声をかけたり、作者の意図やら訴えたいことなるものを理解しちゃったり、「触りたくなりますね」と心が動いたりする、そのたくさんの過程を目の前で見聞きし、経験している。はたまた、展示とは全く関係ない仙台駅東口の話をしたり、駐車場に面白軽トラックを見に行ったり、たくさんの栗を託されたりする。たった数時間のうちに、これらの出来事が続々と発生する。

会場において起きている出来事に、付かず離れずの微妙な位置から巻き込まれてしまう。それらの出来事の生成過程に立ち会い、巻き込まれるという経験こそが、在廊という行為の核心なのだ。

まちと詩、家をカリンバ化する、若者は食べねば
  • 武田さんが朗読のことを「再現」と言い表して、毎回違うものになるポエトリーリーディングと対比していたが、ここで言われている朗読は例えばどのようなものなのかが気になった。むしろ、通俗的には朗読は「解釈」ではないかと思うのだが。敢えて「再現」ということばを使うなら、テキストにおいて起きていることを(解釈を踏まえて)再現する、ということだろうか。(少なくとも中尾さんの言っていた朗読とはまったく違う気がする。僕は中尾さんの文章を読んでから、朗読は「再現」でも「解釈」でもないのではないか、と思っている。)
  • ピアノの最低音よりも低い音が出るカリンバをつくったものの、それが実際に綺麗に鳴っているかを聴き取ることができないから、カリンバを家の壁に固定して「家をカリンバ化して」鳴らすことで音の確認をした、という話が一番面白かった。そうか、低音の楽器は音を充分に鳴らすために大きくせざるを得ないのか。「家をカリンバ化する」というのは発想や表現として面白いだけじゃなくて、ふつう楽器として認識できないような構造物さえも振動させることで楽器にすることができるという、音楽的な可能性としても面白い。
  • その超低音カリンバアンデパンダン展に出展されている。武田さんのリクエストで実際に演奏を聴かせていただけることになった。聴いてみるとベースと同じように、メロディを聴かせるというよりもかなりパーカッシヴになっている。あとでそのことを直接創作カリンバ工房の方に伝えると、「このカリンバは展示会場に置いていて自由に弾くことができるのですが、この間来た方は楽器を横にして、ギターみたいにジャカジャカ弾いていたので、もっとパーカッシヴでしたよ」と話してくれた。
  • 最初、武田さんはことばの意味だけを意識し、感じながら読んでいるのだろうか、と思っていた。しかし、意味の動きとは別に、抑揚がついたり速度が変わったりするところもあったように感じた。詩にでてくることばは極めて平明で、一歩間違えばすぐに意味だけを拾って撫でてしまいそうになる。武田さんの声はあくまでひとつひとつのことばの意味も丁寧に拾いながら、そのうえで自分のことばの響きを大切に愛でるように発せられているようだった。
  • カリンバのポストクラシカルな演奏は即興だろうか、とは思っていたが、しかし、その即興がどのように組み立てられているのかはさっぱり分からなかった。片方のカリンバがリフレインを探り当てて、そこにもう片方のおおきなカリンバが伴奏を沈み込ませていくような演奏もあったし、伴奏からはじまっていく演奏もあった。あとで「コードだけは決まっているとか、お互いに示し合わせている項目もあるんですか?」と聞くと「そういうのはまったくありません。そんなに難しいことはしていなくて」と仰っていた(難しいことはしていない、とは…?)。武田さんのリーディングに合わせた完全な即興らしい。ときおり二つのカリンバが絡み合い一つのアルペジオをすこしはやめのテンポで熱っぽくつくりあげる瞬間があって、それがとても良かった。

終演後、武田こうじさんに「武田さんが前野さんと一緒につくった『本があるから』を読んで、大学を辞めて仙台に帰ってきました」と伝えたらものすごくびっくりしていた。ちょっと大袈裟だがあながち嘘ではない。挨拶ができて良かった。今年からコミュニティアートなるものに片足を突っ込んでしまった身として、「まち」と「詩」を掛け合わせるような活動をしてきた武田さんに強く関心がある。

長話をしていたら打ち上げにも参加させていただくことになってしまった。とてもありがたい(申し訳ない)。伊東さんや星空カフェのさゆりさんから「若者は食べて」とお皿がどんどん運ばれてくる。武田さんがSDGsのこととかイベントのこととか色々と話してくれたのだが、その語りがあまりにも面白くて惹き込まれっぱなしだった。語りの雰囲気のうちに魅力がある。僕は的のはずれたアートの話(なんで震災後にイベントが増えたのかという話)をちょこっとしただけで、あとはずっと聞いていた。

 

 

*1:あとで調べてみると、建物の近くのお弁当屋さんあたりが旧宮城野原駅だったらしい。

*2:別のひとに聞くと「東口」は「駅裏」って呼んでいた、とのことだった。

*3:

*4:個展だとまた話は変わって、空間設計(キュレーション)しだいで「触る」動きを引き出しやすくなる。グループ展と個展には、複数の作品どうしの相互作用を生み出すことで空間全体にどれくらい干渉できるか、空間全体の設計においてどれくらい融通が効くかの違いがある。「作品に触れない(触らない)」というコードは、展示空間全体において作り出されるコードである。

*5:前回の個展でもこのことを考えていた。

「さわってください、もってください、あけてください、とはなるべく言わない、というのも技術かい?」

ことばで明確に促さないということだね。この箱を開けてください、と言ったら、その箱はもう『開けるモノ』になってしまう。それは過干渉であり、体験のノイズだ。写真や立体作品を何が起こっても良い〈場所〉として生かすためにはまず余計なものだ。これを注意深く避けていくのも技術だな」

「つくばの友人が『飾っているのに飾らない空間だった』と感想を述べていた。この『飾らない』というのもちいさな技術だろうな」

「飾るのももちろん技術だけどね。動線を引いたり、わかりやすいようにキャプションを置いたりする飾り付けは、押し付けと紙一重なんだ」

(『interlude/祭りのあと - 個展「景に遇う」の場にゆらめいたことについて』)

*6:今回の『すれ違う栞の束と』では、いのうえさんにも「ほかに参加してもらえそうなひとがいたら声をかけてください」とお願いしていた。