とある土曜日の「ふうどばんく東北AGAIN」におけるフィールドレコーディング。ひとり親世帯への食料配布(フードパントリー)を終えて事務所にもどり、金田くん(高校生ボランティア)の誕生日を大合唱でお祝いした直後のワンシーンを切り取ったもの。みんなが誕生日ケーキを食べながらにぎやかにお喋りするうしろで、わたしはうろ覚えの「HAPPY BIRTHDAY」(キテレツ大百科ED)をたどたどしく弾いています。取り上げるまでもない、本当になんでもない、あがいんのいつもの風景です。
「あと3年しかないですよ」「あと3年もあんじゃん」「たぶんこの子たち結構働くと思いますよ」「うちはたぶんすごいホワイト」「22時まで働いてんの知ってんだよなー」「おつかれー」「気を付けてね!」「うちで預かってく?泊まらせる?」「トトロのかんたくん」「よしひさ、ワンホール食べるでしょ」「キャラメルケーキもあるよ」「だいだいはみんなここで食べてくよ」「めでたいね」「17歳だよ」「楽しい盛りだね」「おつかれさまです、ありがとうございまーす!」
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事務所の卓上カレンダーに金田くんの誕生日が高校男子の字で書き入れられていたので、ぼくが「自分で書いたんだ」と笑いながらつっこむと「いや、その汚い字は私」と横からあがいんの副代表理事である富樫さんが答えます。「みんな間違えるけど、金田より私の方が字が汚いから。」ぼくはその発言にまた笑いながら、密かに「すごい」と思っていました。事務所の卓上カレンダーに、一人のボランティアの高校生の誕生日を書き込むひとがそばにいる。
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ひとりの高校生がへとへとな様子でフードパントリーを手伝い、終わったとたん事務所のすみっこで寝始めました。ぼくは結構ほんとうに心配してしまったのですが、周りの高校生たちは笑い飛ばしていて、なんなら寝ている彼のそばでピアノを弾くことを提案してきます。
ぼくはフードパントリーには今日ほぼはじめて参加しました(といっても30分ていど)。疲れ果てているように見える彼は、まったくわからずふわふわしているぼくを先導しつつ、食料を受け取りに来たお母さんに「お米うしろに置いておきますねー」「お弁当助手席で大丈夫ですか?」などと慣れた感じで、朗らかに声をかけていました。
聞けば高校生たちはちょうど定期考査が終わったところ。ただでさえ疲れているなか、その彼はちゃんと睡眠がとれておらず、くわえて何やら家庭か学校で嫌なことがあったようでした。しかし、そんな状態でも(そんな状態だからこそ?)、こうしてあがいんに来てボランティア活動をしている彼の姿に、なにかあがいんという場所が持っている意味の一端を垣間見たような気がしたのです。
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いま、NPOも行政も「サードプレイス」という言葉を頻りにつかって(言葉の権力に乗っかって)、居場所の価値づけをしています。もともとはアメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが、「家」を第一、家から通う「職場」などを第二とし、そこでの役割から解放された一個人としてふるまうことができる何らかの居場所(居酒屋やカフェなど)を概念化したものがサードプレイス(第三の場所)です。
しかし、例えば、ここあがいんにおいては、家をファースト、職場や学校をセカンドとしたオルデンバーグ的な秩序がもはや分かりやすく失効しかけているようにも感じられます。富樫さんと同じくあがいんの副代表理事である髙橋さんは「あいつら(高校生たち)、こないだケガしたって電話よこして。自分の母親じゃなくて、私に」と笑って話していました。今日もまた、お疲れ様です~と帰っていったと思えば、髙橋さんに電話が来て「道が凍ってて自転車で思いっきり滑って転んだ」と報告してきました。「なに!?大丈夫なの!?迎えに行く?」と心配そうに聞く髙橋さんに「大丈夫です」と答えて電話を切ったそう。本当にただの報告だ、と事務所にいるみんなで笑いました。髙橋さんに言わせれば、彼らは「第二の息子たち」です。
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吹奏楽部に所属しているひとりの高校生が「最後の定期演奏会をやります」と案内を持ってきてくれたので、あがいんの理事たちと一緒に見に行きました。開演前、しっかりとカメラを構えてスタンバイする富樫さん。ぼくはホールのどこかに貼られた「撮影は関係者以外ご遠慮ください」的な張り紙をみつけて、富樫さんに一応「あんな張り紙がありますね」と声をかけました。すると、「まぁ、別にいいんじゃない。ほとんど家族みたいなもんだから」とちょっと冗談めかした感じで、なんでもないことのように富樫さんが答えました。演奏会の終盤に「3年生がこのメンバーで本当に良かった」と泣きながら話す部長の挨拶を聞きながら、ぼくの頭のなかでは富樫さんのさっきのひとことがリフレインして止みませんでした。
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サードプレイスだと思っていたその場所は、ファーストプレイスにも、セカンドプレイスにも、ときどきカメレオンのように変調します。そのひとの置かれる家庭環境や職場環境によっては、サードプレイスが家よりも家であり、学校よりも学校なのだと思います。そして、ぼくも例にもれず、本来は職場でしかないはずのあがいんを、家でも職場でもありながら家でも職場でもないオルタナティヴな場所として捉えています。
機能性による固定的な区分けが単純に適用できるような場所ではありません。そのひとの求める存在が、ぽっかり欠けた部分が、少しずつ自己補修していくようにその場所の意味をひとりでに引き寄せるのです。
こども家庭庁が掲げる「こどもまんなか」というスローガンも、あがいんという場所においては空転しているように思えてなりません。その場に居合わせたひとがかわるがわる「まんなか」になるようなあがいんのいつもの風景が、「こどもまんなか」という生暖かなことばを超えていく。そんな風景がなぜ成り立つのかといえば、富樫さん・高橋さん・きえ子さんという中心人物たちが目の前のひとを忽ち受け容れて自然と「まんなか」にしてしまうからであり、その資質に惹かれたひとたちがこの場に留まりつづけるからです。
留まりつづける、ということでしか、この場の肝心なところは理解できませんし、関わることもまた不可能です。ことばで輪郭づけて固定化しようとしても、たちまち置いてけぼりになってしまいます。だからぼくは、じぶんがここに留まりつづけるために、このフィールドレコーディングをことばの手前に残しておきます。
recording/edit:Yuuki Takakura
date:2025/2/22
place:ふうどばんく東北AGAIN事務所(富谷市成田)
equipment:TASCAM DR-05X
editing software:Adobe Audition 2025、Adobe Premiere Pro 2025