波頭

束の間、淡く残ることについて

涙とおかえし - 「ボーダレス映画祭2023」雑感

 

 今年も去年と同じようにボーダレス映画祭に映像担当として参加したので、ここに感想を書き残しておきたい。自分の個展の準備で忙しくしていたのもあって体調が万全ではなく、全部の作品をしっかりと観ることができなかったため前回のような文章にはならなかったが、かえって力みのない、暢気な文章になって良かったと思う。

 

⇩去年のボーダレス映画祭について書いた文章

 

⇩ボーダレス映画祭2023HP

 

 

   *

 

 

 シティ・マグフィラ監督の『違ってるから、いい』のなかで、アートインクルージョンの職員である河田綾さんの「一緒に一日過ごすのが仕事」ということばが聞き取られている。彼女はインタビューのなかで通所者のそれぞれについて、このひとはこんなひとなんですよ、と簡潔な一言であらわす。そのひとはふだん何をしているか、どんな作品をつくっているか、ちょっと困ったところもあって、でも最近こんなふうに変化してきました、そういえばこんなこともあって…と、まるでいま目の前で起こっている出来事をその場でことばにしているかのように話す。「支援」という意識ばかりではおそらく語れないであろう、そのひとの魅力のようなものをスパッと言い当てる。そしてたぶん、本当にそのひとに魅かれているからこそ、楽しそうに話すのだ。アートインクルージョンでは「支援員」ということばはあまり用いられず、通所者のそばにいる、みんなと一緒に一日一日を過ごす「パートナー」ということばを用いる。

 

 ディペシュ・カレル&さいとうあさみ監督の『徳林寺の空の下 〜別れと出会い〜』を観て、もっとも印象的だったのは、新美さんというひとの在り方だった。相生山徳林寺にあつまったベトナム人技能実習生たちとサッカーをして、汗を流しながら「楽しいから来ているというだけ」とはなす。コロナで仕事を失って自国に帰ることもできない難民たちがかわいそうだからなにか手助けをしたい、支援をしたいとかではなくて、彼らはすごく楽しいから一緒に遊びたい、ただそれだけなんだと言う。
 映画の終盤、新美さんの誕生日にみんながサプライズをするシーン。ハッピーバースデーの大合唱とともにケーキが運ばれてきて、新美さんは本当に、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまう。「楽しいから」と言って一緒に居続けた、すべての時間の結晶のようなその涙が美しく、思わずもらい泣きしそうになったのだが、次のシーンでは「おかえし」に新美さんが民謡を披露してみんなで笑っている。このひとの涙と「おかえし」に、門脇さんが企画の主題としていた「いかにひとびとは社会のなかでストレンジャーたりうるか」という問題へと実践的に迫るためのヒントを汲み出せそうな気がするのだが、それはいくらなんでも楽観的過ぎる直感だろうか。

 共同存在、co-presenceなんて大げさに概念化する必要はない。ただ、一緒に居ること。

 例えば、「地元学」の始祖であり民俗研究者の結城登美雄さんは、東北の100以上の農山漁村を歩き訪ね、3000人以上の村民から話を聞いてきて、地域とは地理的空間でもコミュニティみたいな概念でもなく「家族のあつまり」だと簡潔に定義する。その家族というのも結城さんに言わせれば単純明快なもので「一緒に耕し、一緒に食べる者たち」だと言う。ラテン語のFAMILIAがfamilyとfarmerに分化したことをそのイメージの一応の根拠としているが、学問的な厳密性はともかくとして、とにかく気持ち良いほど簡明で、耳に残る。血縁があるかどうかなど関係ない。人種、性別、能力、あらゆる出自も関係ない。一緒に過ごした時間がわずかなものだったとしても、生活に必要なものをつくるためみんなでDIYをしたり、料理をして、食べて、うたをうたい、別れるときには泣きながら抱きしめ合うそのときに、新美さんとベトナム人たちが家族でないとしたら何だろう。
 結城さんはまた、こんなことも言う。大学で地域文化論なんて授業をもっていたのに、学生から「先生、文化ってなんですか」と聞かれても一度も応えられたためしがない。でも、村のおばあさんが簡単にこう応えた。「文化とは、みなで楽しむこと。ひとりで楽しんでも文化とは言わねぇ。」一日の畑仕事を終えて、仕事ばかりが生活じゃないだろ、まぁ飲もうや、と誰かの家に集まる。じゃあ俺は歌をうたうからお前は踊れ、よしじゃあ儂は楽器を弾こう、俺は飯を持ってくる、俺は酒を用意するよ…とみんなで何かを持ち寄って、楽しむこと。どれだけ些細なことでも良い、誰かが自分のできることをする、「おかえし」に誰かがまた、自分のできることをする。結城さんが日本の農村漁村を歩きながら身体で見出してきた「文化」や「家族」の向こう側に、難民を受け入れる徳林寺や障害者福祉施設であるアートインクルージョン、さらに門脇さんや地球対話ラボの方々が続けてきたインドネシアカフェや地球対話までもが透けて見えてくる。

 

 『パレスチナ・レポート』のなかで門脇篤監督は、「僕はゲストの目を通して旅をしている」と語るツアーガイド、アルメニア教会のまえにコーヒースタンドをひらく家族、かならず歌をうたいながら心を込めないと美味くならないと言うコーヒーショップの店主等々、パレスチナで生きる様々なひとに出会う。そのそれぞれの出会いに文脈説明はない。パレスチナ問題についてもテロップによる補足などはない。すべての出会いに意味を付さず、編集による統一的な物語化もはかられず、はじめてその場所に訪れるひとと迎えるひとのたどたどしいコミュニケーションがただ淡々と写され、そこから彼らの語りや働く姿が切実に流れ込んでくる。まるで門脇監督と一緒に旅をして、彼らと出会っているようだ。
 門脇監督はまず、彼らと一緒に居ようとする。情報を引き出すことももちろん大事だが、まずこの一日一緒に居て、コーヒーを飲んだりなにかを食べたり、じっくり話を聞いていたら、いきなり「じゃあ、家を見に来ないか」と思いがけない提案が飛んでくる。去年のボーダレス映画祭で門脇さんは「自分にとって映像は誰かと関わるためのツールなんです」と言っていたが、それは同時に「誰かと関わる」ということを撮ること、誰かと一緒に居るということを刻印するように撮ることなのか、と痛感する。そのとき、カレル監督が上映前に語っていた「私はみなさんに、何かを伝えたいのではなくて、この場所をただ見て欲しかった」ということばをはっと思い出し、その意味が腹の底に落ちていくのを感じた。
 私たちは「この場所をただ見る」ことで、カレル監督や門脇監督が誰かと一緒に居たその場所に、わずかでも居ることができるのかもしれない。その映像を場所として、ただ留まること。物語化して情報化して足早に過ぎ去るのではなくて、その作品と一緒に居ること。

 

《追記》

2023.10.21(sat)

パレスチナの暮らしを知っていますか?」
〜『パレスチナ・レポート』上映&トーク

  • 半年以上ぶりに『パレスチナ・レポート』を再見する機会があった。本イベントは10月7日以降のパレスチナでの状況を受けて、ブックカフェ火星の庭により緊急で企画・開催された。前半に門脇監督の同作品(短縮版)を上映したのち、後半に監督と皆川万葉さん(パレスチナ・オリーブ)のトークが行われた。トークの前半は同作品の内容を受けて参加者からの質問を募り、それに応えながらパレスチナの生活や文化について二人が補足、後半は10月7日以降のパレスチナの様子が皆川さんから語られた。イベント開始前には火星の庭・前野さんから「今回の趣旨は政治的な議論をしてお互いの立場を明確にすることではない。自説を主張するようなことはないように」と簡単に説明がなされた。
  • 火星の庭のイベントに参加するのは青山太郎さんの『中動態の映像学』発刊後のトークイベント以来だったので7か月ぶり。個人的には、門脇さんと出会う前の私が特にお世話になっていた前野さんの企画で、門脇さんの映画が上映される、という感慨深い日になった。
  • 作品について、初見時も少なからず感じていたことだが、ガイドのサラさんの強かさに改めて驚かされてしまった。自分自身は自由に旅行することができない*1、でも、この仕事をすることでゲストの目を通して世界を旅することができるんだ、だからこの仕事が好きだ、と話すサラさんの、もはや安易に可哀想などと思わせないこの強さはなんだろう。僕が門脇監督だったら、自由な旅行者である自分に後ろめたさというか、居たたまれなさを感じてしまいそうな状況だが、そんな自意識がちゃちに思えるほど、軽やかで、逞しい。旅行者をガイドしているのではなく、ガイドしているというシチュエーションのもとで、ほんとうはガイドのほうが旅行者(の話やスナック菓子)を通して旅をしている。門脇監督の身体は媒介としてうまく利用されている。
    世界に埋め込まれた不可能を軽やかに、目くるめく楽しみに変換してしまう小さな戦術。彼は門脇監督との出会いを通してどんな旅をしていたのか、映像が踏み込めないそんなところに想像が飛んだ。
  • カメラを持っていくのを躊躇ったが、持って行ってみれば意外にもあっさりと撮れてしまった、ずっとカメラを回していたらこのような映像が「撮れてしまった」と門脇監督が話していた。今までの映像制作はアート活動の記録の意味合いが強く、そのため説明的な映像になりやすかったが、今回は以上のような制作過程ゆえにほとんど説明を付さずつくった、とも。確かに見れば見るほど、普段の監督を知っている者からすれば、「普段の門脇さん」が映っているに過ぎなくて面白い(カメラはそこにただ、添えられている)。そして、撮影者が徹底的に普段の人間でいるからこそ、被写体の普段もまた映っていくのだろう。カメラを向けたら写真を撮ってもらえると思って笑顔で構えるひとやポーズをとるひとが登場するが、そのときの「ふつうさ」と言ったらない。うたをうたいながらコーヒーを入れる男性。花束を高く投げてあそぶ青年。
    門脇監督のような、パレスチナに関心があって来てはいるがパレスチナを撮ろうとしていない作家が、逆説的にパレスチナのふつうをここまで撮ってしまう。たぶん、パレスチナの現状を撮ろう(撮らねば)と思っているドキュメンタリー作家やジャーナリストも、パレスチナの生活を発信しようとしているパレスチナ人も、仰々しさが前に出てしまって、全然ちがう映像になると思う。どちらの方が素晴らしいとか、そういうことではない。

映画の上映後は事前に注文していたドリンクと、映画に出てきたオリーブオイルをつかったオートミールクッキーが配られたのだが、コーヒーを頼んだひとは希望があればカルダモンを入れてアラビアコーヒー風にして飲むこともできた。前野さんがのどかに「映画見ると飲みたくなりますよねー」と言っていたのが印象的だった。

ひとつだけ、終盤に20代前半の男性が感想を話している途中でうしろから「はなし、まとめて!」と野次が飛んできた瞬間、場所の雰囲気が決定づけられてしまったようでがっかりした。確かに発言者は「何かを言いたい」という気持ちが先行しているように終始感じられたが、それはともかく前半の「政治的な関心に基づく議論とドキュメンタリー映画の相補性」みたいな指摘で言いたいことはよくわかったし、話をもっとまとめてほしい、はやく話し終えてほしいとか正直言って私は微塵も思わなかった。こういう議論の場でうしろから野次を飛ばす権力性(に無自覚であること)は発言をどんどんつぶしてしまう。皮肉にも平等や共存を先に見据えた議論の場で、不寛容がぽこっと現れてしまったような(大袈裟?)

あと、皆川さんが何度も何度も「わたし、話し始めたらずっと話してしまうので…」と発言を中断していたのが印象に残った。ファシリが居ないので、門脇監督にも話を振らないといけないといけないし、時間のことも考えないと…という気配りがあったのだろう。対して、門脇さんはいつも通りマイペースに振られようが振られまいが話したいことしか話さないし、周りの人間は間違いなく全員「このままずっと話して欲しい」と思っているのが面白かった。

オリーブオイルを買って帰った。朝はザアタルとオリーブオイルをトーストに乗せて食べる。ニュースで流れてくる惨たらしい出来事について「何かしなくちゃ!」とかではなく、単純に今日のことと『パレスチナ・レポート』という作品へのリプライ、登場人物たちと少しでも一緒に居るためのささやかなリプライとして。

 

 

 

*1:パレスチナ人が旅をすることの困難については、例えばウェブ上に次のような文章がある。

www.parcic.org