波頭

束の間、淡く残ることについて

制作のたどりなおしと制作的なこと - メモ

 

2022年11月11日に「栞の束から制度化へ:制作するを制作する」と題してオンライン企画を行った。ここに残すのは、当企画において準備したハンドアウトの一部である。

 

 

はじめに:背景と趣旨

同年にすれ違う栞の束とという制作を行い、そこからstrangers in my townというプロジェクト(2023年2月以降の漂流葉書でとうめいに)へと移行していくタイミングだったため、本企画の趣旨は以下の2点だった。

  • 「すれ違う栞の束と」という制作では(それぞれにとって)何が起こっている(いた)か、みんな(何も知らない人も含む)で話し合うことで今回の制作現象を再制作するような場をつくる。
  • 新作「strangers」の序文的なものとして、過去の滴々の制作から受け継ぐこと・新たに実験的に盛り込むことをそれぞれ整理して共有してみる。それを参加者の感想や質問などによって変形させていく。

要するに、「すれ違う栞の束と」の総括、そしてそれを踏まえた次回作のコンセプトづくりである。また、裏のテーマとしては、滴々の制作にかかわってきたひと(水澤先輩やその友人、父など)といま高倉が仕事や制作でかかわっているひと(門脇篤さんや中川真規子さんなど)、そして高倉の思考の基礎をつくってきた「たちどまる読書会」に参加しているひと(佐藤みたらしくんやタコのマリネくんなど)、この三者を一度にあつめて、まったく異なる文脈をひとつに重ねてみる、という個人的な愉しみがあった。

ところが、企画本番であまりにもグダってしまったため、用意していた内容のほとんどを話せず、また企画終了後も結局話す機会がなく、完全にお蔵入りになってしまった。

用意していた内容のうち特に、(1)滴々の制作を振り返り(2)具体的に私が何を制作と呼んでいるのか、をまとめた箇所は自らの立ち位置を明確にし、今後もその都度立ち戻るための指標として有用だと考えるので、ここに記録・公開する。

※以下は2022年11月につくられたメモなので、それ以降の「漂流葉書でとうめいに」「イメージを歩きつつ(風景を誤読する)」や2023年のボーダレス映画祭、気仙沼アート小学校、アート・インクルージョンにおける制作などについてはほとんど書かれていません。

 

制作をたどりなおす

高倉の制作(2017年〜)
  1. 私的な創作活動
    1. 【あしたのおと】(旧ブログ)開設(2017年7月)と文章執筆:大学1年生のときに約47000字の「新海誠論」を徹夜で書いてしまう。それ以降、なにか文章を書いては親友や父にだけ送って読んでもらうことを続ける。主題は自他関係論と言語(表現)論
    2. 詩歌作と即興音楽:未だ漠然とした「表現」への志向。なんとなく、ことばとことばじゃないものの境界に向かいたい
    3. 思索と詩作の両輪、論理と身体の二重化。考えるだけでなく、いかに具体的に行為し体現していくか、しかし、考えること、本を読むことをそこから切り離したくない。あくまで制度の内側にとどまり、論理に一元化し、表現形式も執筆や発表に偏ってしまう「研究」行為との相容れなさ?
  2. 仙台の芸術文化シーンへのゆるやかなフィールドワークとイベント参加(2019年12月〜)
    1. 青野文昭さんの個展(メディアテーク)に衝撃を受ける火星の庭や曲線、マゼランなどの本屋(というか場所を生み出すひと)に出会う。「場所をつくることと表現すること」という漠然としたテーマが浮かぶ。「とにかく、いろいろなひと(場所をつくっているひとや表現活動をしているひと)のはなしを聞きたい!!」という欲求が生まれる。
    2. 小野和子さんとの出会い高橋親夫さんとの出会い。表現や場所に触れて感動したら、文章を書き(書いてしまい)、手渡し、直接読んでもらう。仕事以外の仕方で社会とつよく繋がるような経験。1年間のまとめとしての【「表現」についての覚書】(2020年11月)作者が伝えたいことを手放す(=作者が「場所」になる)ことで生まれてくる「表現」について。
    3. 伊東卓さんとみはらかつおさんのTALK【過去を視る 過去を想う】ファシリテーション(2022年1月)。「聞く」という仕方で参与し、語りの場が媒介的につくられていくこと。実際に「場所」をつくり、「場所」になる経験。
  3. 【たちどまる読書会】ふわっと設立(2020年6月〜)
    1. 「たちどまる」を共有する場所。通り過ぎないこと、批判すること。テキストを輪読するが、目的はテキストの読解というよりも、みんなで「たちどまる」ことそのもの。テーマは、『宮沢賢治』(見田宗介)、現象学、風景論、など。
      →しかし、「たちどまる」とはいえど、やればやるほど留まってはいられない!読書会を終えてから気づくと、立ち止まった地点とは別の地点にいる。何かに気付く、世界の見え方が変わっている。ゆらゆらと揺れだしている。「たちどまる」(何かにじっくりと向き合うこと)が含意する制作(ただ、たちどまっただけなのに、気づくと「つくっている」)。

 

滴々の制作(2021年1月〜)
  1. 【景に遇う】
    1. チフリグリいのうえさんとの出会いと「なかの方アートショップ」への参加(2020年1月・2月)。ワークショップ【景に遇う】の共同運営。いわゆるアートが関わる場所に、制作者として参加するきっかけ。
    2. 「滴々」名義でSNSはてなブログ【波頭】開設(2021年6月)。制作の外向きの発信。
    3. 【せんだいアンデパンダン展】出展(2021年9月)。
    4. 【滴々個展「景に遇う」】開催(2021年11月)。その「経験を咀嚼して飲み込む」ものとしてエッセイ【interlude/祭りのあと】。制作ってなんなの?なんでこんなことをやってしまうの?ということを実践的に考えはじめる。
      1. 創作現象において立ち上がる〈出来事〉
      2. 作品について:「風景が(偶然に)あらわれる/残る」
      3. 展示について:「場所として生きること」と「プロセスのさなかに置くこと」
      4. 技術について:どのように「流れ」に介入するか
      5. 祭りのあと:余韻と予感の日常世界、生活の背景としての祝祭
  2. 【すれ違う栞の束と】
    1. 発案と呼びかけ(2022年6月)。7月にインドネシアに行くことになったが、「はじめての海外!」的な経験ではなくて、どこにでもある生活の遍在、同時発生のほうに着目してみよう、という認識態度を課す。「写真を送る」「持ち歩く」「旅先で詩を書いて送り返す」という行為。
    2. 同じコンセプトでつくったものを、繰り返し複数の媒体で重ね直すスタイル。まず、写真と詩を散りばめたテクストを「波頭」にて公開(123)。その後、インスタでフォトコラージュを公開。Youtubeで映像作品を公開(Collecting bookmarks of our stories)。最後は製本して【アンデパンダン展】に出展(2022年9月)。
    3. 「どうしようもなくそこにあるのに、うまく読めない。読めないのに、ずっと、そこにある」。いま目の前にありありと立ち現れているのにもかかわらず、すらすらとは読めないテクスト。遍在する生活のテクスチュア。
  3. 【イメージを歩きつつ(風景を誤読する)】 
    1. 佐藤みたらし作『仙台で部屋探しをする前に住む場所を決める。』(2022年5月)。「ネット記事」「街歩き」を批判する。何もないように見える街でも、歩いていれば生活の断片のようなものはある。散歩者の一人称的風景(テクスチュア)からはじめる。たまたま見つけた中途半端に古い町中華!!!!!!
    2. ただ歩くだけ。意味づけしない。目的を持たない、予め行く場所を決めない。気になったことを手放さない。複数回の散歩を重ねて、たどり直す。語り直す。
    3. 桜ヶ丘を歩く(2022年7月)。生活者が一切認知していなさそうな沈砂池。フェンスで囲まれた空き地。50円自販機。

 

門脇さん・地球対話ラボとの制作(2021年12月〜)
  1. 【つながるインドネシアカフェ】(2021年12月〜)に参加。
    1. どうして参加?→門脇さんや中川さんがやっていることの「わからなさ」。わからなかったら、とりあえず近くに居てみる。一緒にやってみる。どんなことばを使っているか、何をしているか、観察してみる。仙台でのフィールドワークの延長。
    2. 12月の初参加後、【持ち寄って、拡散する】執筆。門脇さんたちのどんどん「巻き込んでいく」動き。巻き込まれることによるアイデンティティの拡散。自分のやっていること、他人のやっていることが、どんどん伝播して場所に成っていく感じ。
  2. 「オンラインボーダレス映画祭」(2021年3月)にスタッフとして参加。映写室ですべての映像をみる。【いつの間にか踏み越える/戸惑いながら立ち止まる】執筆。門脇さんたちの制作「Strangers in Sendai」において何が起きているのか、という問題意識。個々の作品の内容や意味よりも、制作行為そのものや方法論をたどる。【持ち寄って、拡散する】でとりあげた門脇さんたちの態度や認識をさらに掘り下げる。
  3. インドネシア渡航(2022年7月)
    1. 門脇さん、中川さん、渡辺さんたちの相互補完的関係性に一貫して着目。とにかく、自分にとっては異国人よりも、彼ら(の関係性)の方がまずストレンジャー(他なるもの)である。
    2. レポート【通る、迎える身体】。贈与としてのコミュニケーション(アルフォンソ・リンギス)。しかし、本当に書きたかったことは自分のことだけではなく…。門脇さんたちがまずインドネシアで解放されている(?)風景。
  4. 気仙沼図書館における地球対話のファシリテーション(2022年9月)。
    1. はじめは「対話」ということばに対する懐疑があった。ストイックなイメージ(ex哲学対話、熟議民主主義…)。
    2. 地球対話ラボの言う「対話」はコミュニケーション全体のこと。無視しない、目を背けない、ということ。返事というか、反応すること。それを媒介として起きる出来事をすべて認めて、面白がる感じ。その結果として、関係が生まれていく。
  5. 「アート・インクルージョン(Ai)」の活動に参加(2022年8月-)
    1. 【Ai month2022】のキュレーション(2021年9月-10月)。仙台市長町の商店街の5つの店舗とAiスタッフが協働し、インスタレーションやワークショップをつくる。例えば、ハトヤという老舗駄菓子屋で「昭和のおもちゃであそぼう」というワークショップをする、など。全く表現活動に馴染みのないひとと対話しながら少しずつ企画をつくっていく。地域のひとと障害のあるアーティストを(ある意味表面的に)つなげながら、何か誰かが「たちどまってしまう」「とどまってしまう」仕組みをつくれないか。

 

制作的なことについて

「制作」はどこにおいて起こるのか?そこはどのような場所なのか?
―中動態、パフォーマンス、ワーク・イン・プログレス―プロセスの内側へ
  • ひきこもり臨床論としての美術批評」とAimonth2022
    • その作家がなにをかいたのか、なにを示せたのか。なにを思ってかいたのか。その作品に込められたメッセージは?意図は?制作をする目的は?この作品はなにに分類できるか。作者はどういう人物なのか。この作品から自分はいったい何を受け取れば良いのか。→これらの問いを一旦わきに置く。作家とか、作品とか、意図とか意味とか、伝えたいこととか、メッセージとか、そういうものはもう興味がない。
    • 「作るプロセスに内側から付き合う」こと。プロセスの外側から選別した「利用可能な結果物」や「効果」ではなく、「見えない(理解不可能な)生産過程」の内部(そのすぐそば)に留まろうとする態度ただ単に、そのひとと、そのひとの表現行為と、一緒に居ようとする態度。
    • 例えばAimonth2022で言えば、赤井沢の柱に貼られたものではなくて、かっつんが即興的にペンを走らせていく時間と、それに同期するようにして私によって作品がロール紙に貼られていく瞬間について。エンドー時計店に設置された映像の音が聴こえないことではなくて、店主が毎日スピーカーを屋根にくくりつける時間と動画を再生する時間について。たかピーさんの駄洒落とハトヤ店主の子供への声掛け。
    • 例えば、なにかしようとして苦戦し口ごもっているひとが居る。アートインクルージョンに来る利用者でも、ハトヤに来るこどもでも、インドネシアカフェに来る実習生や地元のひとでも良い。誰もやろうとしないことをやろうとする表現者でも、表現と向き合って途方に暮れている鑑賞者でも良い。その横から入って口を出すのでも彼のできることを全部代わりにやってしまうのでもなく、それをじっと待ち、見つめたり、一緒に考えたり、最後の一瞬そっと手を添えたりする、そのあきれるほど冗長な時間について。
    • 「わけがわからない」といって無視しないこと。「こういうことでしょ」と意味に還元して、足早に通り過ぎないこと。
  • 『芸術の中動態』(森田)における〈中動態〉概念
    • 日本語の「見える」。「思われる」(デカルト)。「つくる」→「たち現れてくる」(クローデル)、「不意をついて生じたり」(カンディンスキー)、「現れる」(ゴッホ)、「おのずとことばになる」(エルンスト)、「美しいものとして詩人に現れる」(アラン)。宮沢賢治など。
      「おのずから」起こる「出来事」。「私」という項は過程の内部にある(バンヴェニスト)。動作主は必要ない。しかし、同時に主体が生成されつつある。その出来事が可能になる場所としての主体。
    • 「制作」は主体と環境の相互生成的な絡み合い(交渉)という「出来事」、その過程である。ごくあたりまえのことを言語化したに過ぎないかもしれないが、「出来事が現れる」過程そのものへと降りていく態度を示した意義はある。しかし、
      「中動態である」と指し示し、一般化するだけで終わっていて、個別具体的な制作現象に迫るような議論ができていない。「中動態は生成変化の態」と言うが、なにがどのようにつくられ、なにがどのように変化していくのか?
      あくまで形態化された「作品」及びその「完成」にこだわっており、議論の可能性が「芸術」という制度に限定されている。
    • 上妻世海の『制作へ』p47において森田を批判的に論じている箇所がある。「作者」「作品(完成品)」「鑑賞者」、さらには「芸術」ということばも脱ぎ去り、あたらしい制度をつくる。「制作」を芸術の制度から解放しようとする視点は我々のものと近いが、しかし、その批評においても、まだ各個のプロセスの内部に具体的に入っていけていない。一般化にとどまっている。
  • 『パフォーマンスの美学』(リヒテ)における〈パフォーマンス〉概念。
    • リヒテも(ヘルマンに倣って)「作品」という概念を排除する。「作品」の内容や意味ではなくて、それが上演されるという「こと」そのもの、その「出来事」の過程に制作がある。
    • プロセスの一回性、同時多発性。誰も全体を把握できない。誰がなにに出会うのか、何も起きないのか、すべてを予見できない。
    • 役割の反転可能性、関係の可塑性。固定的なものとして世界を見ない。脱安定化と多安定化。
    • もともとは演劇などの身体表現や祭祀・儀式などを説明する概念だったが、そこから彫刻や絵画、インスタレーションなどの芸術制作、更に広くコミュニケーションなどの日常的実践まで拡張できる。中動態概念では扱えない時間的射程の広さ、影響範囲の広さ。例えば、「在廊」というただギャラリーにいるだけ、作品を見守っているだけに思える行為をパフォーマンスとしてとらえてみる(【在廊というパフォーマンス】)。あるいは、【すれ違う栞の束と】のパフォーマティヴィティ。手紙を書くこと、投函すること、それを送り届けること。すべて含めて、出来事の意味をプロセス内在的なものへと解放すること。
  • 川俣正「ワーク・イン・プログレス」
    • 完成形を見せるだけではなく、工事中〜解体・撤去まで含めて制作とする開放系の制作。仮設かつ未完。
    • ひとりではできず、必然的に多数のひとが関わるシステム(作者は誰?不定形)。川俣のようなアプローチ(地域におおきな構造物をつくる)ではない仕方でプロセスの内側に他者を呼び込む(巻き込む)ようなシステムを作りたい。「弱いロボット」的なアフォーダンス。小さくささやかで、ほんのわずかな時間。例えば、はなしを聞く、とか、手紙を届ける、とか?
    • しかし、アートプロジェクトが拡散し巨大化し社会化し、プロセスが効率化されていく側面もある。強みと弱み。藤田直哉の「地域アート」批判。とはいえ、アートプロジェクトがちゃんと「制作的」である瞬間もあるのだが…。それをどのように言語化するか?(細部の出来事をどのようにえぐり出し、可視化するか)

 

「制作」では何が起きているのか?何が生まれているのか?
―幼年期、アジール、もうひとつ別の現実―制作とは制度化である
  • ふたたび見出された〈幼年期〉(井岡詩子『ジョルジュ・バタイユにおける芸術と「幼年期」』)
    • (文学とは、)ついにふたたび見出された幼年期である。」おとなの世界を知ったうえで、どうしても還ってしまう場所としての「こども」。屈折している。批判的な自己意識。
    • 「幼年期」への志向とは、他者に支配された状態やなにかに従属した状態からの解放を目指す際に選択される身振りの特徴を捉え、集約したものとも言えるだろう」(p40)。たとえば、有用性の破壊(至高性)。大量の石に写真を貼って、ドミノのように置く、それを拾って眺める(阿部明子さんの展示)。見積書や履歴書を支持体にする(Aimonth2022の赤井沢)。約束や大きな物語の拒否、裏切り。途中までは意識的に、意識を有用性から引き剥がす
    • 意識の転換としての〈遊び(遊戯)〉。丁寧に、真面目に遊ぶ(労働や学問の端々にもある?サドの遊戯的理性)。完全に理性をカオスに飛ばしてしまうことはできないし、カオスを捨象して有用性だけに生きようとすることもできない。意味に汚されていない「余白(あそび)」を理性的に温存し、その余白のなかを泳ぐこと。
    • それはまた〈逃走〉でもある。「あるべき姿」という理性の囲い込みからの逃走。「存在すること」からの逃走(レヴィナス『逃走論』?)。消えてなくなるためにそこにある(カフカや賢治)。どこかに安息の地を見つけるのではなくて、逃げ続け、揺れ続けることが欲望される。「ひとつの決まったかたちにならなくて良い」「揺れていても良い」避難所としての〈アジール〉(『声のつながり』所収の安部さんの論考)。
      この「揺れ」とは何なのか?
  • メルロ=ポンティの〈制度化〉概念
    • 偶然の出来事や自発的な行為がふと生起し、そのおかげで、あるダイナミックな実践の領野がとつぜん開かれること、そして、この領野において、出来事や行為―つまりささいな仕草のやりとりや、規範からの逸脱や逆行が、予想外な「意味」へとおのずから結晶化し、それまでの制度では不可能と思われたことが可能になること、そしてこの意味が他者たちとさまざまな次元で分かち合われること、あるいは少なくともそれを分かち合う他者が創設されること、それが制度化である」(廣瀬浩司『次元の開けとしての制度化』)
    • 「ふつうはこう考える」「ふつうはこう感じる」というようないつもどおりの内面の規範がいつの間にか同じようには機能しなくなり、普段とはちがう考え方をしてしまったり、思いもよらぬ行動をとってしまったり、なにかを鮮烈にかんじとってしまったりする。そして、そのそれぞれが意外な意味をもって、今後の行動や考え方に影響を及ぼす。
    • 個展「景に遇う」をつくりあげたこと、門脇さんたちの活動に参加していること。いつの間にか身体がほぐれる。遊んでしまう。そこにただ居続ける。制作することも、受容することも、その場に立ち会うことも、そこであたらしい身体をつくったりつくらなかったりする可能性に参与することなのでは。インドネシアカフェは、はじめは恥ずかしげだったインドネシア人実習生たちが「七輪を取り囲んで焼き鳥を焼く」「ギターを弾いてみせる」ような身体をつくったのかも。
    • グループ展の会場でどうすれば「本を手に取る」というアクションが生まれるか。箱を予め閉めておくか、予め開けておくか。制作の「技術」というものがあるとすれば、力の動きや場の硬直を敏感に感じ取り、その動きをズラしたり一時的に抑制したり解放したりするワザではないか。例えば、「読ませる」「言わせる」「黙らせる」「触らせない」「見せない」などの力の動きに介入すること。

 

さいごに:「strangers」という制作をどのように考えるか?
    • 「stranger」や「よそ者」、「他者」という語を使わない。あらかじめ引かれている(ように見える)境界線から始めるのではなく、誰かが誰かにとって「あらわれる」、「みえてくる」、「関係性が生まれてくる」場所に立ち会うようなワークショップ。
    • SNS的なファストなコミュニケーションの極北としての「手紙のやりとり」。コミュニケーションの余剰。手紙を書く、投函する、送り届ける(場所から場所へ移動する)、読む、返事を書く、というパフォーマンス。そのプロセスのさなか、決して可視化されない想像や感情。