波頭

束の間、淡く残ることについて

夢のおすそわけ - と影「寄添 you resew」について

と影さま

 

突然のお手紙失礼いたします。

展示のキャプションが手紙の体裁をとっていらっしゃったので、それに応えるように手紙として文章を書いています。

 

 

まず、ひとつ謝らせてください。まだ展示準備中だと丁重に頭を下げていらっしゃったのに「大丈夫です」とか何とか言って、展示を見はじめてしまい、ごめんなさい。「そうでしたか、では後で改めて来ますね」と言ってさらりと退室するべきでした。いままさに展示がつくられている状態で鑑賞するのもたのしそうだな、と自分勝手に思って気にせず見はじめてしまいました。

あまりにも申し訳ないので、少しでも展示の感想と思い出を書き綴って、それをと影さまの今後の活動の一助にしていただければと思い、この手紙を書いています。(そんなことを言いつつ、結局私が書き残しておきたいことを勝手に書いているに過ぎないかもしれません。)

 

 

展示を見おわって、等々力渓谷に向かってあるきながら、展示の感想とか疑問を同行者に一方的にぺらぺらと話していました。クレヨンで描いたという絵が特に素敵だったとか、あの水の音がし続けているすみっこの空間にずっと居たかったとか、どうして花束があいだに挿し挟まれていたんだろうとか、キャプションの文章になんとなく『海獣の子供』(五十嵐大介)の世界観を感じたとか、でも世界観ベースの展示は自分の制作とは真逆かもしれないとか。うーん、うーん、でも、でも、となにか掴みきれないものを感じていました。

私の話が途切れてしばらく経ったころ、同行者がゆっくりと思い出すように、空に浮かんでいることばを触るように、こんなことを話しはじめました。

「今日ここに来るまでの電車のなかで、窓から差してくる光を見ていました。なんてきれいなんだろう、美しい夢だな、って思ったんです。ほかのひとは、現実のことを夢だなんて言ったら、何それおかしいって笑うかもしれません。でも私は、美しい夢だ、って思ったんですね。さっき展示を見ていて、これはゆきのさんのみている夢なのかもしれない、ゆきのさんが見ている美しい夢を、こんなふうに作品にして展示して下さっているなら、素敵だなって。」

彼女はときどき、現実のなかで突然舞い降りてくるあたたかな瞬間を、光、夢、とシンプルに呼びあらわします。もちろん、「夢のような光景」「夢のような気持ち」というふうに現実を夢に喩える言い回しはありますが、彼女のばあい、現実を「美しい夢だ」と言い切るのです。この言い切り方に、彼女の現実の感じかた、さわりかたの具体性があります。夢のなかで蝶になっていたひとが「夢のなかの蝶のほうが本当の私かもしれない。いま見ている現実こそが夢かもしれない」と分からなくなってしまう説話がありますが、まさにそのように、現実と夢の分割線がほんとうにふわっと見えなくなる瞬間があるということです。そして、その境界がわからなくなる瞬間はたまらなく美しくて、感情がどんどん溢れ出て、からだが満たされていく心地だけがあると。

このはなしを聞きながら、私はなるほどと得心しつつ、なんだか大切なことを思い出した気がしました。

ひとつの作品が、そのひとのみた夢かもしれないということ。だれかの夢をみることはできなくても、こんな夢をみていたのかもと想像することはできる。

 

 

と影さまの展示では、絵と写真がいろいろなところに貼られていて、手書きの文章がその間を縫っていて、目線を落とせばそこにピアスやイヤリングがそっと置かれていました。ほかにも花束や木製のベンチと什器、布を被った(水音のする)物体がありました。このなかで私がもっとも見慣れなかったのはアクセサリーです。絵と写真と文章が織り混ざったマルチメディアな展示はよくありますが、そこにアクセサリーが重なる展示は見たことがなかった。絵や写真や文章が「見られる」「読まれる」ことを想定しているのに対して、アクセサリーや工芸は「身につけられる」「使われる」ことを想定している点で、(今回の展示においては)かなり特殊なものに思えました。秘めているものが違うように思いました。

絵や写真や文章が、ひとつの静かに冴え渡った世界を立ち上げていることはよくわかりました。しかし、ピアスやイヤリングはむしろその世界のほうから生み出された惑星のようで、しかもあと一歩のところで「未完成」という印象を受けました。もちろんそれは、作品の完成度が低いとかそういうことではありません。展示されただけでは終わらないというか、誰かに身につけられることを待っている。ここに根本的におおきな余白がある。

鑑賞者はもしかしたら、ピアスやイヤリングに触れて、身につけることで、作家の世界にわずかでも分け入り、あるいはその一部を分けてもらうことができるのかもしれません。キャプションのなかに、愛犬を亡くしたことを物語る文章がありました。その文章を受け取った私は、木のにおいに満ちた展示空間をあるきながら、その経験のやりきれなさをおもって、でも光のような絵画と写真に慰められて、視線を落とした先にあるうつくしい装飾品に無性に恋い焦がれるような気持ちになりました。この透明なプロセスは、展示タイトルにあるように、自分のものではない記憶を縫い直す(resew)こと、作家から分けていただいた世界を鑑賞者が受け取り、自分の世界の一部として積極的に編み直すことなのかもしれません。

 

 

ひとつの作品がそのひとの夢であるなら、展示や発表は微かな光のおすそわけ、夢のおすそわけであるのだろうと思います。

難しい細かい話はとりあえずはどうでもよくて、自分のみた夢の手触りを制作に乗せること、衒わずにおすそわけすること、少しここに立ち返って制作をやってみたいと思っています。

 

 

おまけです。

よく調べずに行った等々力渓谷は入り口がわからず、通行止めに阻まれて進めなかったりしましたが、とりあえず橋を渡ったり、龍のくちから零れる滝を見たり、等々力不動尊にご挨拶したり、たのしく歩けました。

同行者がちいさな蕾のついた枝をひろったので、私は謎の殻をひろいました。

おすそわけします。

 

それでは、またどこかでお会いできたら嬉しいです。

素敵な展示をありがとうございました。

 

滴々(たらたら) 高倉悠樹