波頭

束の間、淡く残ることについて

聴けば残るもの #03(「mizugarasu」「あふれる」「1ユーロ返して」)

※note上で2021年10月31日に公開した文章を再掲しました。

 

 

 

 

RYUTist「mizugarasu(ウ山あまねRemix)」

作詞・作曲:君島大空

新潟市のアイドルユニット・RYUTistが2021年5月にデジタルリリースしたシングル『水硝子』表題曲のRemix。オリジナルの作詞作曲編曲は君島大空。リミキサーはウ山あまね

原曲ではヴォーカルの純朴な透明さが、万華鏡のようにころころと変幻するトラックの明るさと交わる。ある意味で、サウンド的にはわかりやすい。「好きな人の体温で自分の体が液体になって、その人の体の隙間に入り込めたら」と君島は書くが、たしかに、「水硝子」という粘性の高い液体が身体へと透明に浸透してゆく感触が音によって巧みに構築されている。そして、これはやはり、RYUTistの透明な〈声〉の役割が大きいと思う。

しかし、ウ山あまねの編曲において、その音のコンセプチュアルな構成やコード感は大胆に破壊され、とりわけヴォーカルには度々強力なサウンドエフェクトがかけられている。

夜のその闇に溶けて あなたの隙間に
流れてくの 魔法じゃないよ

歌詞を引いた箇所(太線部、2分46秒〜)では、参加したヴォーカルが予め有している「声の透明性」という大きな特徴を敢えて解体し、音楽をさらに匿名的な領域へと連れ出していく。原曲のコンセプトを飲み込んだ上で、個性的な〈声〉の質感も相互浸透的な身体の感触も振り切って、非人称的で純粋な〈音〉のみが切迫する約10秒間。〈声〉は〈音〉に向かって純化され、異次元に歪む。あまりにも聴き覚えがなさすぎて、ゾクゾクしてくる。ここだけで身体がまるごと入れ替わってしまうほどの衝撃力がある。

もちろん、これは対照効果である。他の箇所でヴォーカルの固有性が担保されていること、ところどころ透明な音の構築が残されていることによって対照的に(特に)先の10秒間に凄まじい力が発生している。基本的には原曲の解釈が下敷きにあって、だからこそ再構築された音に意味が宿るのだろう。原曲が個人的な〈声〉に導かれて「透明に浸透する」感触に到達したことを踏まえ、その〈声〉すら解体して匿名的な〈音〉の純粋さを露出して見せる、この一連の文脈まで含めて音楽として聴くことができる。

 

やながみゆき feat.さとうささら「あふれる」

作詞・作曲:やながみゆき

ボカロP・やながみゆきが2018年11月にニコニコ動画に公開。ヴォーカルに音声合成ソフト・CeVIOの「さとうささら」を使用している。2021年8月にSpotify等各種サブスクリプションでも公開。

今年8月につくばに行ったとき、大学時代からの友人宅に滞在させてもらったのだが、1週間ほど滞在するなかで1日だけ、所属していた吹奏楽団のコンクールを手伝うためにその友人が外出する日があった。

特にすることもなかったので、親友の生活感を周りに感じながらひとり、部屋で音楽を聴いていた。ぼんやりと自動再生されるものを聴き流すこと1時間くらい。さすがに同じような曲の連続に飽きてきたころ、サブスクに来たばかりのこの曲をなんとなく再生したら、いったいどこにそんなに溜まってたのか、涙がポロポロ溢れてきてびっくりした。

なんだか 眠れなくて 私は 窓を開けました
外は 雨上がりの 土の 匂いがしました
さらさらと木々の 音が 聞こえてきました
いかなくちゃ 私 早く いかなくちゃ
人知れず ここから 遠い 西の空まで
この体ひとつで 歩いて いかなくちゃ

夜明け前に 家を出たのは 久しぶりでした
このまま どこまでも 行ける気がしました
雲が流れていて 星が出ていました
大切な約束を 果たすような気持ちで 歩いて
ひとりで私 なんだか変だなって 思いながら 歩いて 
澄みきった 空気を かき分けて いきました
タン タン と この足を 踏み鳴らして いきました
(いち に さん)鳴き交わす 鳥の声が 遠く 遠く 響いて
東の空へと 消えていきました(立ち止まって)
あさが (あさが) (あさが) あさがきた
希望のあさが きたらいいな 
いつも こんなふうに
こんなふうに 毎日が
そしたら もっと
たくさんの
しあわせが
目に見えるのかもしれないね

まって (まって) まってよ
まだ いかないで(いかないでよ)
今 たしかに ここに あったはず なんだけど
消えていっちゃった
感動は 私を すりぬけて 風の中

小さい頃は 私 宇宙に 行ってみたかったな
雲よりも 高い 高い 濃紺の 星空を 泳いで
地球の おーっきな青を見て そしたら私
みんなの苦しみが消えてなくなったら いいなって
そこで たくさん たくさん 祈るんだ
大人になってそんな気持ち なくしてしまったけれど
あなたは 今日は しあわせですか
せめて今 そばにいてくれる 人たちの 毎日が
少しでも つらくないことを 私は 願っています

形のあるものが いつか壊れて なくなっても
今日のことを いつか 思い出せなくなっても
心配しなくて いいんじゃない(大丈夫 きっと)
そしたら私も 海に(宇宙に) 溶けて(なって)
ひとりで ながい ながい 旅に 出ます
もう一度(また) あなたに(あなたと) 会える日まで(生きてみたい)

あさ(あさ) あさ 朝靄の中を 今 私は
あなたを 探して 歩いています
あなたも ちょっと 疲れちゃったかな
もう あまり 時間が ないと思うから
だって 空が 青すぎるから
深い 深い 森の中を 踏み越えていきます(どこにいますか)
手足にできた 切り傷が 痛くて 涙が出ています(もう遅いですか)
でもね わ たし 何回も 間違えちゃったから
 
あなたは 今日は しあわせ ですか
その絶望は どれほど つらいものですか
海の底は 暗くて 寒いですか
せめて あなたの 最後の一瞬が
少しでも 少しでも 救われていて ほしくて(ほしくて)
いまさら あなたを想う この気持ち(止められ) この(なくて)体から

あふれる

(※基本的にはニコニコ動画の字幕に準拠。声の重なる部分は、片方を地の文で、もう片方を丸括弧付で表記している。)

語りは宮沢賢治を連想させる純粋さ、純粋すぎてあっという間に崩れて自壊してしまいそうで、危ない。そして、この崩壊寸前ギリギリのリリックが、ASA-CHANG&巡礼を彷彿とさせる「吃り」を混ぜ込んだポエトリーリーディングという方法で音になっている。しかし、例によって、こういう風に「連想させる」「彷彿とさせる」という言い方で語りたいことは何もない。語るべきことがあるとも思っていない。

以下の箇所においてさとうささらの声は、「ことばでは表現できない」という焦燥に責付かれるようにして溢れ出している。たまらなくなって、声は、声に重なっていく。

(いち に さん)鳴き交わす 鳥の声が 遠く 遠く 響いて
東の空へと 消えていきました(立ち止まって)
あさが (あさが) (あさが) あさがきた
希望のあさが きたらいいな 
いつも こんなふうに
こんなふうに 毎日が
そしたら もっと

(1分15秒〜)
まって (まって) まってよ
まだ いかないで(いかないでよ)
今 たしかに ここに あったはず なんだけど
消えていっちゃった

(1分38秒〜)
あさ(あさ) あさ 朝靄の中を 今 私は
あなたを 探して 歩いています
あなたも ちょっと 疲れちゃったかな
もう あまり 時間が ないと思うから
だって 空が 青すぎるから
深い 深い 森の中を 踏み越えていきます(どこにいますか)
手足にできた 切り傷が 痛くて 涙が出ています(もう遅いですか)
でもね わ たし 何回も 間違えちゃったから

(3分29秒〜)
せめて あなたの 最後の一瞬が
少しでも 少しでも 救われていて ほしくて(ほしくて)
いまさら あなたを想う この気持ち(止められ) この(なくて)体から

あふれる

(4分5秒〜)

次の箇所では特に、二種類の別のことばが、同じ一つのことを言うために重なって現れる。一つの言い方では言い表せない、「一つの言い方を選ぶ」というスピードでは全然足りないのだ、という苦しみをまるごと曝け出すように。

心配しなくて いいんじゃない(大丈夫 きっと)
そしたら私も 海に(宇宙に) 溶けて(なって)
ひとりで ながい ながい 旅に 出ます
もう一度(また) あなたに(あなたと) 会える日まで(生きてみたい)

(3分13秒〜)

「海に溶けて」「宇宙になって」という二つのイメージの仕方、「もう一度あなたに会える日まで」「またあなたと生きてみたい」という二つの感情吐露の仕方。さとうささらの声はこんな風に、溢れて、表現の仕方もろとも重なったり、逆に、すんなりとことばが出ていかず吃ったり、感情の脈動がそのまま表出しているかように生々しい。やながみゆきは、音声合成ソフトがこのように声を「生きている」ことに賭けているのではないか、などと思う。

煩わしい高次の思考を捨てて澄み切ったことばが、焦燥と緊張でいっぱいいっぱいになりながら、本当に切実に迫ってくる。「今 たしかに ここに あったはず なんだけど 消えていっちゃった」というフレーズはどうしても、どうしても哀しい。リフレインするバックのメロディーは優しく重なっていくから尚更に。

夕方には帰ってくるだろう友人を待ちながら、この音楽に感動することができる自分の感受性をちゃんと仙台に持って帰ろうと思っていた。そんな風に思えたのはたぶん、はじめてのことだった。

 


ミシェルメルモ「1ユーロ返して」

作詞:篠原とまと 作曲:メイソン=ハウス

ミシェルメルモにより2020年11月にシングルリリースされた楽曲。クレジットによれば、ボーカル、ピアノ、ドラム&パーカッション、ベース、アルトサックス、トロンボーン、フルートという構成。

サビの構成がとにかくぶっ飛んでいる。
49秒からの冒頭(「コインのダンス踊れば」)、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとヴォーカルが上昇、バックのピアノとサックスは反対に下降してゆく、インパクトのある出だしでいきなり引き付ける。さらに59秒からの「1,2,3,4,5,6,7」は

A9 E♭9 D9 A♭9 G9 D♭9 C9 G♭9

と、1拍ずつ目まぐるしくコードチェンジする訳の分からなさ(コード参考)。振り回されている感じがする。

続く1分3秒〜「ケラケラと財布が笑ってる」はオーギュメントコードで終わるので、「あ、こりゃまだ続くな…」という予感を残す。このサビ、どういう風に着地するんだ…。ちゃんと終わるのか、これ…。募る不安感、どこかに連れて行かれている興奮(ジャズ的な語法特有の?)。

1分17秒〜「こんな気分のいい日は久しぶり」段々とマイナー調になって、「お、落ち着いてきたな」「そろそろ終わるかな」と思わせるが、1分24秒「でも、まだ」…終わらないんかい!

1分26秒「あなたは知らないの今日も」、ここもド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとメロディが上昇するが、コードはクリシェ進行、伴奏はピアノだけになってゾクゾクするほど美しい。静かに着地へと向かっていることが分かる。実際に「南に帰っちゃった」とヴォーカルが着地して、管楽器が跳ねる間奏部分へ。
この間奏の入りが、とにかく、脳内で何十回何百回も自動リピートされてしまうほどに絶妙なのだ。軽快だが、複雑な余韻が残る。

不安を煽るような展開も、落ち着いたハーモニーも、サックス・トロンボーン・フルートという管楽器のアンサンブルが下支えしている。こんな大胆な音楽展開でも重くない、胃もたれしないのは、フルートやトロンボーンのコロコロとしたフレーズやピアノの合いの手があるからだろう。また、ヴォーカルのメロディと歌詞も同様に、シンプルな聴き心地の良さを担保している。

音楽的な複雑さがもたらす興奮と何度も聴きたくなるポップネスが同時に成立している。僕にとって、聴いたときに必ず立ち止まらざるを得ない音楽はおそらく、こういう音楽だ。