波頭

束の間、淡く残ることについて

聴けば残るもの #02(細井徳太郎「エンガワ」)

※note上で2021年10月2日に公開した文章を再掲しました。

 

 

「エンガワ / 細井徳太郎」
(作詞・作曲:細井徳太郎)

ネット上に歌詞が公開されていないので、僕が聴き取ったものを下に書き残す。この記事はほぼそれだけの記事です。

窓越し見つめてた
腰の折れた影
きっとあと数歩待っていれば
チャイムが鳴る

風の匂いに揺られて
籠の夢ごこち
ささくれた指の温もりを
覚えているよ

田んぼの向こう側
土の花が咲く
あのひとはどんな大雨も
晴れに変えた

行きつけの酒屋
そこの喫煙所
いつでも会いに行けばそこにいて
笑っててくれた


日に焼けた肌が
白と黒になる
あのひとのこんな薄化粧
はじめて見るわ

空っぽの肺に
煙を足したら
きっと気付くはずだ
あのレコードの音がとんだ


行きつけの酒屋
そこの喫煙所
いつでも会いに行けばそこにいて
笑っててくれる

細井さんの歌い方的に語尾が曖昧になるので、「日に焼けた肌が」「白と黒になる」「煙を足したら」とかが間違っている可能性大。まぁ、そんなことはどうでも良いのだけど(いや、CDを買いなさい。買います)。

 

      *

 

音楽を聴いて涙が滲んでくる、という経験は、ここで描写したような感じだと思う。「濁流のように」と書いてしまったが、感情の堤防をこえていく音楽は、濁流のように一気に押し寄せてくるものと、じわりじわりと水圧が増していくものとある。思えば、「エンガワ」は後者だった。いつも涙が出てくるわけではない。ふとしたときに、掴まれて溢れてくる。例えば、祖父のことを想っているときとか。

 

空っぽの肺に
煙を足したら
きっと気付くはずだ
あのレコードの音がとんだ

いつか二人で聴いていたレコードがまわる。こうやって煙草に火を点ければ、気付くはずだ。あの人のもう動くことのない肺に副流煙が潜り込む。分かるだろうか。ほら…。まるで返事をしたかのように、音楽がプツととんだ。

最低限のことばで、こんなにも具体的な挿話が語られる。「あのレコード」は何かわからないけど、ここが曖昧になることで二人の関係への想像は広がる。もちろん、この解釈はほとんど間違っているかもしれない。間違っていても良い。むしろ、解釈なんて、間違っていたほうが良い。

 

この箇所に差し掛かるまで何回も繰り返されてきたこのフレーズを、 僕はもう覚えている。突飛な動きはせずに一歩一歩確かめるように主和音へと向かうコード進行。あたたかくて、身体に馴染むメロディ。あくまで淡々と静かに時間を慈しむ歌詞が、コードやメロディの動きの穏やかさに溶ける。

あのひとはどんな大雨も
晴れに変えた
いつでも会いに行けばそこにいて
笑っててくれた
きっと気付くはずだ
あのレコードの音がとんだ

主和音へと「音楽が帰着する動き」と、歌詞における「日本語動詞の過去形」はとても親和性が高いように感じる。おそらく、このふたつの要素は「還ってくる」という動きにおいて同期している。音楽が和音から和音への移り変わりを経て主和音(中心音)へと還ってくると同時に、詞世界もまた、過ぎ去ったはずのある時間に向かって還ってくる。

行きつけの酒屋
そこの喫煙所
いつでも会いに行けばそこにいて
笑っててくれる

しかし、最後のサビでは歌詞が現在形で終わっている。ここで音楽は還ってくるが、歌詞は前を向いている。「笑っててくれた」と過去を思い出しているのではなく、いまでも笑ってくれている、と言い切りのかたちで呟く。音楽は終わってゆくが、詞の世界はたぶん終わらない。たぶん終わらない、という予感がある。

アウトロでは一度カオスを経て、逆再生という擬似的な「過去への逆行」が行われる。過去に戻りたい、という強い気持ちが音楽的に表現されている一方で、ことばでは「いつでも会いに行けばそこにいて笑っててくれる」と語り直していたことの余韻がやはり、響く。

こんなにも静かに、微細に、感情のままならなさは歌われる。過去を見ながら、いまを見る。過去に恋焦がれながら、前を向く。この微妙さ、感情の襞の部分が歌になっている。