すれ違う栞の束と
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それはすべて、目の前にいるひとを信じてしまったからだった。
運ばれてきたものをしばらく、見つめてみる。なんだかいつも、さっさと破いて中身を取り出してしまいがちな気がして、今日はちょっと多めに眺めている。その村のひとびとは、向こうへ、向こうへ、どんどん自分の身体を投げ飛ばして、抜け殻のように転がっている記憶の数々には目もくれない。それを珍しいもののように見ているのは、そのとき偶然にも僕なのだ。
別に欲しいものもないのにドラッグストアに入ってしまった。高速バスの出発時刻まではまだ20分ほどある。ここで飲み物を買ってしまおう、と思い立つ。今日は珍しく彼女が配信をしない。
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あのとき、彼は何でもないことのように「その角のとこ、中学のとき付き合っていたひとの家だ」と言った。
「抜け落ちてしまったものはなんですか?」と聞かれても、モヤモヤとしていてよくわからないが、わからないと言って終わらせてしまうことをすんでのところで踏みとどまる。100均でランドリーバッグを探していたときに、生活をしている、という肌触りが突然押し寄せてきて思わず立ち尽くす。
「息子と話すときは少なくとも2時間は話しますよ。一回の電話で、全部の出来事を報告してくれます。今日なにを食べたのか、誰と会ったのか。だから、あんまり不安はないんです」
そう話す彼女はやっぱりどこか不安そうにしている。インタビューの最後で「みなさんは息子について、良いことばかり言ってくれるけれど、私を安心させようとして言っているのではないですか?」とこぼした。時折、目元を拭うそのひとから僕は意識を逸らして、遠く、夏が訪れているであろうどこかの風景の静かな水飲み場にやってきた。そこには芝生があって、やっつけ仕事的に置かれた東屋があった。
あなたの感情が行き着く場所はここだろうか。用意されたようにそんなことを思う。
何も言えない僕はぷかん、と浮かんでいる。
空気が音を吸い込んでいる。誰かの唇の感触がたぶん、この空気のうちには残っている。
信じることを選んでいるわけでもないのに、勝手に信じてしまう。いつの間にか大切なことが増えていて 初詣に向かう道中で祖父が言っていたことを思い出したい。石鹸をひとつ袋から出して、それがあなたの自慢の花なら、 本当はそれを見たかったから。
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「すれ違う栞の束と」について
日本の各地に散らばる生活者の撮った〈写真〉と僕がインドネシア滞在中(7/9-30)にかいた〈散文詩〉をコラージュし、ひとつの作品として構成します。
写真について
数名の生活者から「撮ってしまった」ものを送ってもらい、本人の希望するキャプション(一言メモ)を付して栞のように挟み込んでいます。高倉がインドネシアで撮影したものも含まれます。
写真で参加する方法と詳しい制作背景は以下のファイルを参照してください。
生活という現象の「読むことを拒みつつあらわれる」動きはどのように表象化し得るか、という問題に制作行為を介して取り組んでいます。