波頭

束の間、淡く残ることについて

 

 

 

20230709 松本市

 

 

昨日の夜は眠れなくてカーテンが波うち膨らむのを見ていた
衣擦れの音は寝返りのように聴こえて
同居していた誰かの服や化粧品を捨てている瞬間に
川面は静かな光 終わりそうで終わらない花火のかたち

 


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最後の頁は白紙にしたまま貴方がいつでも好きに書き込めるように山を這う灯の粒が遠くに群れていて其れからいつまでも目を離せずにいるのでした女鳥羽川を伝い歩いてきた自分たち自身もまた見えてきたので引き戸をあけて部屋に戻ると常夜灯ひとつ生活の色はベージュ柄は初夏向きなのでしょうか

 

 

萩町-※※-新原三差路-茨大前営業所-安原町-保和苑入口-※※-上土町-

横顔 

 

 

武並駅を出たばかりの車窓に、田んぼのあいだで楽器を吹いているジャージ姿の少女が映る。木々の隙間から木曽川の霧が立っていて、少女の残像はその霧へ潜ってしまったから、曇天色の音だけが伏流水のように流れ続ける。来た道を戻っていく想像が繰り返し訪れる。

 

 

「中学生くらいまで家は荒物屋。配達もやってたんだけど、お前も手伝え、って自転車を買ってもらってね、小学2年生とかかな。卵を配達したとき、当時は卵を入れるプラスチック容器とかはなかったからさ、新聞紙に包んで自転車の前籠に入れて運んだのよ。でも、籠のなかで卵が割れるでしょ。配達先で『あなたのところに頼むといっつも割れているのよね…』って言われたのをよーく覚えてるよ」

 


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朝の6時を待っているベランダから飛び出しそうな自分を押さえつけてこれ以上不安に振り回されないように慎重に線を引くカーテンの膨らみが陽光とじゃれ合い炭酸水の跳ねるようなみずいろ言い忘れたこと言わなかったこと言わせなかったこといつか突然居なくなったあとあのひとはひとりで彼のマグカップや歯ブラシを捨てたのだろうかどれほど静かに穏やかに代わりに覚えています私が覚えていますので貴方は忘れてもだいじょうぶ出会ってしまえばたいしたことなくもう眼中にないであろう私は虚空に逃げるようにして転がっている目覚まし時計を見ていますぼんやりと希望していることに気づいてあらあらと線を引きまたここに来るとは約束しない優しくしない風鈴と屋根炭酸水を口に含んで

 

 

20230710 松本市

 

 

▼Reference

 


 

 

 

 

 

 

涙とおかえし - 「ボーダレス映画祭2023」雑感

 

 今年も去年と同じようにボーダレス映画祭に映像担当として参加したので、ここに感想を書き残しておきたい。自分の個展の準備で忙しくしていたのもあって体調が万全ではなく、全部の作品をしっかりと観ることができなかったため前回のような文章にはならなかったが、かえって力みのない、暢気な文章になって良かったと思う。

 

⇩去年のボーダレス映画祭について書いた文章

 

⇩ボーダレス映画祭2023HP

 

 

   *

 

 

 シティ・マグフィラ監督の『違ってるから、いい』のなかで、アートインクルージョンの職員である河田綾さんの「一緒に一日過ごすのが仕事」ということばが聞き取られている。彼女はインタビューのなかで通所者のそれぞれについて、このひとはこんなひとなんですよ、と簡潔な一言であらわす。そのひとはふだん何をしているか、どんな作品をつくっているか、ちょっと困ったところもあって、でも最近こんなふうに変化してきました、そういえばこんなこともあって…と、まるでいま目の前で起こっている出来事をその場でことばにしているかのように話す。「支援」という意識ばかりではおそらく語れないであろう、そのひとの魅力のようなものをスパッと言い当てる。そしてたぶん、本当にそのひとに魅かれているからこそ、楽しそうに話すのだ。アートインクルージョンでは「支援員」ということばはあまり用いられず、通所者のそばにいる、みんなと一緒に一日一日を過ごす「パートナー」ということばを用いる。

 

 ディペシュ・カレル&さいとうあさみ監督の『徳林寺の空の下 〜別れと出会い〜』を観て、もっとも印象的だったのは、新美さんというひとの在り方だった。相生山徳林寺にあつまったベトナム人技能実習生たちとサッカーをして、汗を流しながら「楽しいから来ているというだけ」とはなす。コロナで仕事を失って自国に帰ることもできない難民たちがかわいそうだからなにか手助けをしたい、支援をしたいとかではなくて、彼らはすごく楽しいから一緒に遊びたい、ただそれだけなんだと言う。
 映画の終盤、新美さんの誕生日にみんながサプライズをするシーン。ハッピーバースデーの大合唱とともにケーキが運ばれてきて、新美さんは本当に、顔をくしゃくしゃにして泣いてしまう。「楽しいから」と言って一緒に居続けた、すべての時間の結晶のようなその涙が美しく、思わずもらい泣きしそうになったのだが、次のシーンでは「おかえし」に新美さんが民謡を披露してみんなで笑っている。このひとの涙と「おかえし」に、門脇さんが企画の主題としていた「いかにひとびとは社会のなかでストレンジャーたりうるか」という問題へと実践的に迫るためのヒントを汲み出せそうな気がするのだが、それはいくらなんでも楽観的過ぎる直感だろうか。

 共同存在、co-presenceなんて大げさに概念化する必要はない。ただ、一緒に居ること。

 例えば、「地元学」の始祖であり民俗研究者の結城登美雄さんは、東北の100以上の農山漁村を歩き訪ね、3000人以上の村民から話を聞いてきて、地域とは地理的空間でもコミュニティみたいな概念でもなく「家族のあつまり」だと簡潔に定義する。その家族というのも結城さんに言わせれば単純明快なもので「一緒に耕し、一緒に食べる者たち」だと言う。ラテン語のFAMILIAがfamilyとfarmerに分化したことをそのイメージの一応の根拠としているが、学問的な厳密性はともかくとして、とにかく気持ち良いほど簡明で、耳に残る。血縁があるかどうかなど関係ない。人種、性別、能力、あらゆる出自も関係ない。一緒に過ごした時間がわずかなものだったとしても、生活に必要なものをつくるためみんなでDIYをしたり、料理をして、食べて、うたをうたい、別れるときには泣きながら抱きしめ合うそのときに、新美さんとベトナム人たちが家族でないとしたら何だろう。
 結城さんはまた、こんなことも言う。大学で地域文化論なんて授業をもっていたのに、学生から「先生、文化ってなんですか」と聞かれても一度も応えられたためしがない。でも、村のおばあさんが簡単にこう応えた。「文化とは、みなで楽しむこと。ひとりで楽しんでも文化とは言わねぇ。」一日の畑仕事を終えて、仕事ばかりが生活じゃないだろ、まぁ飲もうや、と誰かの家に集まる。じゃあ俺は歌をうたうからお前は踊れ、よしじゃあ儂は楽器を弾こう、俺は飯を持ってくる、俺は酒を用意するよ…とみんなで何かを持ち寄って、楽しむこと。どれだけ些細なことでも良い、誰かが自分のできることをする、「おかえし」に誰かがまた、自分のできることをする。結城さんが日本の農村漁村を歩きながら身体で見出してきた「文化」や「家族」の向こう側に、難民を受け入れる徳林寺や障害者福祉施設であるアートインクルージョン、さらに門脇さんや地球対話ラボの方々が続けてきたインドネシアカフェや地球対話までもが透けて見えてくる。

 

 『パレスチナ・レポート』のなかで門脇篤監督は、「僕はゲストの目を通して旅をしている」と語るツアーガイド、アルメニア教会のまえにコーヒースタンドをひらく家族、かならず歌をうたいながら心を込めないと美味くならないと言うコーヒーショップの店主等々、パレスチナで生きる様々なひとに出会う。そのそれぞれの出会いに文脈説明はない。パレスチナ問題についてもテロップによる補足などはない。すべての出会いに意味を付さず、編集による統一的な物語化もはかられず、はじめてその場所に訪れるひとと迎えるひとのたどたどしいコミュニケーションがただ淡々と写され、そこから彼らの語りや働く姿が切実に流れ込んでくる。まるで門脇監督と一緒に旅をして、彼らと出会っているようだ。
 門脇監督はまず、彼らと一緒に居ようとする。情報を引き出すことももちろん大事だが、まずこの一日一緒に居て、コーヒーを飲んだりなにかを食べたり、じっくり話を聞いていたら、いきなり「じゃあ、家を見に来ないか」と思いがけない提案が飛んでくる。去年のボーダレス映画祭で門脇さんは「自分にとって映像は誰かと関わるためのツールなんです」と言っていたが、それは同時に「誰かと関わる」ということを撮ること、誰かと一緒に居るということを刻印するように撮ることなのか、と痛感する。そのとき、カレル監督が上映前に語っていた「私はみなさんに、何かを伝えたいのではなくて、この場所をただ見て欲しかった」ということばをはっと思い出し、その意味が腹の底に落ちていくのを感じた。
 私たちは「この場所をただ見る」ことで、カレル監督や門脇監督が誰かと一緒に居たその場所に、わずかでも居ることができるのかもしれない。その映像を場所として、ただ留まること。物語化して情報化して足早に過ぎ去るのではなくて、その作品と一緒に居ること。

 

《追記》

2023.10.21(sat)

パレスチナの暮らしを知っていますか?」
〜『パレスチナ・レポート』上映&トーク

  • 半年以上ぶりに『パレスチナ・レポート』を再見する機会があった。本イベントは10月7日以降のパレスチナでの状況を受けて、ブックカフェ火星の庭により緊急で企画・開催された。前半に門脇監督の同作品(短縮版)を上映したのち、後半に監督と皆川万葉さん(パレスチナ・オリーブ)のトークが行われた。トークの前半は同作品の内容を受けて参加者からの質問を募り、それに応えながらパレスチナの生活や文化について二人が補足、後半は10月7日以降のパレスチナの様子が皆川さんから語られた。イベント開始前には火星の庭・前野さんから「今回の趣旨は政治的な議論をしてお互いの立場を明確にすることではない。自説を主張するようなことはないように」と簡単に説明がなされた。
  • 火星の庭のイベントに参加するのは青山太郎さんの『中動態の映像学』発刊後のトークイベント以来だったので7か月ぶり。個人的には、門脇さんと出会う前の私が特にお世話になっていた前野さんの企画で、門脇さんの映画が上映される、という感慨深い日になった。
  • 作品について、初見時も少なからず感じていたことだが、ガイドのサラさんの強かさに改めて驚かされてしまった。自分自身は自由に旅行することができない*1、でも、この仕事をすることでゲストの目を通して世界を旅することができるんだ、だからこの仕事が好きだ、と話すサラさんの、もはや安易に可哀想などと思わせないこの強さはなんだろう。僕が門脇監督だったら、自由な旅行者である自分に後ろめたさというか、居たたまれなさを感じてしまいそうな状況だが、そんな自意識がちゃちに思えるほど、軽やかで、逞しい。旅行者をガイドしているのではなく、ガイドしているというシチュエーションのもとで、ほんとうはガイドのほうが旅行者(の話やスナック菓子)を通して旅をしている。門脇監督の身体は媒介としてうまく利用されている。
    世界に埋め込まれた不可能を軽やかに、目くるめく楽しみに変換してしまう小さな戦術。彼は門脇監督との出会いを通してどんな旅をしていたのか、映像が踏み込めないそんなところに想像が飛んだ。
  • カメラを持っていくのを躊躇ったが、持って行ってみれば意外にもあっさりと撮れてしまった、ずっとカメラを回していたらこのような映像が「撮れてしまった」と門脇監督が話していた。今までの映像制作はアート活動の記録の意味合いが強く、そのため説明的な映像になりやすかったが、今回は以上のような制作過程ゆえにほとんど説明を付さずつくった、とも。確かに見れば見るほど、普段の監督を知っている者からすれば、「普段の門脇さん」が映っているに過ぎなくて面白い(カメラはそこにただ、添えられている)。そして、撮影者が徹底的に普段の人間でいるからこそ、被写体の普段もまた映っていくのだろう。カメラを向けたら写真を撮ってもらえると思って笑顔で構えるひとやポーズをとるひとが登場するが、そのときの「ふつうさ」と言ったらない。うたをうたいながらコーヒーを入れる男性。花束を高く投げてあそぶ青年。
    門脇監督のような、パレスチナに関心があって来てはいるがパレスチナを撮ろうとしていない作家が、逆説的にパレスチナのふつうをここまで撮ってしまう。たぶん、パレスチナの現状を撮ろう(撮らねば)と思っているドキュメンタリー作家やジャーナリストも、パレスチナの生活を発信しようとしているパレスチナ人も、仰々しさが前に出てしまって、全然ちがう映像になると思う。どちらの方が素晴らしいとか、そういうことではない。

映画の上映後は事前に注文していたドリンクと、映画に出てきたオリーブオイルをつかったオートミールクッキーが配られたのだが、コーヒーを頼んだひとは希望があればカルダモンを入れてアラビアコーヒー風にして飲むこともできた。前野さんがのどかに「映画見ると飲みたくなりますよねー」と言っていたのが印象的だった。

ひとつだけ、終盤に20代前半の男性が感想を話している途中でうしろから「はなし、まとめて!」と野次が飛んできた瞬間、場所の雰囲気が決定づけられてしまったようでがっかりした。確かに発言者は「何かを言いたい」という気持ちが先行しているように終始感じられたが、それはともかく前半の「政治的な関心に基づく議論とドキュメンタリー映画の相補性」みたいな指摘で言いたいことはよくわかったし、話をもっとまとめてほしい、はやく話し終えてほしいとか正直言って私は微塵も思わなかった。こういう議論の場でうしろから野次を飛ばす権力性(に無自覚であること)は発言をどんどんつぶしてしまう。皮肉にも平等や共存を先に見据えた議論の場で、不寛容がぽこっと現れてしまったような(大袈裟?)

あと、皆川さんが何度も何度も「わたし、話し始めたらずっと話してしまうので…」と発言を中断していたのが印象に残った。ファシリが居ないので、門脇監督にも話を振らないといけないといけないし、時間のことも考えないと…という気配りがあったのだろう。対して、門脇さんはいつも通りマイペースに振られようが振られまいが話したいことしか話さないし、周りの人間は間違いなく全員「このままずっと話して欲しい」と思っているのが面白かった。

オリーブオイルを買って帰った。朝はザアタルとオリーブオイルをトーストに乗せて食べる。ニュースで流れてくる惨たらしい出来事について「何かしなくちゃ!」とかではなく、単純に今日のことと『パレスチナ・レポート』という作品へのリプライ、登場人物たちと少しでも一緒に居るためのささやかなリプライとして。

 

 

 

*1:パレスチナ人が旅をすることの困難については、例えばウェブ上に次のような文章がある。

www.parcic.org

風景についての序文 - 「木町通クリエイターズ」に参加して

 

 

「木町通クリエイターズ」とは

 2022年6月から2023年3月まで「木町通クリエイターズ」という木町通市民センターが主催する講座に参加していた。木町通地区の建物、歴史、風俗、商売、生活のあれこれについて、実際にそこで生活しているひとへの聞き取りや写真の比較観察、まちあるきなどを通して学んでいくことが趣旨だ。

 ちょうど母校・木町通小学校の150周年記念誌の編纂に母子共々関わることになったので、その作業の入り口になれば、という思いと、大学を退学して仙台に帰ってきてから(主にアート活動や場づくりなどの文化的領域との関わりから)「コミュニティ」や「地域」、何よりも「まちを歩く(散歩する)」という行為そのものに関心が向いてきたこともあり、かなり積極的な気持ちで参加した。

各回の内容を表にまとめたもの

 最初はまちあるきと写真による定点比較がメインなのかな、と思っていたのだが、蓋を開けてみると、受講生が巡り合った自らの関心事にその都度どんどんフォーカスしていく相当自由な講座で、「これ、どこに向かっていくの…?」みたいな僕の好きな感じのフワフワ×エキサイティングな時間だった。まちとの付き合い方を少しずつ刷新していくような時間だった*1

 最終回のシンポジウムでは受講生を代表して僕が話をすることになった。以下はそのときにつくった発表原稿を一部修正し、加筆したものの全文である。

 

 

「木町通クリエイターズ」に参加して


 「木町通クリエイターズ」をもとに考えてみると、自分がまちについて、ひとの話を聞いたり、写真や地図などの資料を探して見たりするなかで「面白い」と思うことは「風景の想像」「風景の変化」という2点だと気付いた。

 

(1)風景の想像

 「殺風景な風景になった。歴史のあるものがどんどんなくなっていった」という話を聞くたびに最初は「全く大変なことだ」と思ったが、だんだん「はいはい…」という気持ちにもなってきた。私はむしろコンビニチェーンや駐車場の増殖する風景に生まれたときから慣れ親しんできた人間なので、色々と探っていくうちにむしろ「こんなにも残っているのか!」という驚きの方が大きくなった。無くなってしまう、あの頃は良かったという悲観やノスタルジーはわからなくはないが、私はむしろ、ここから何を想像できるか、というわくわくする感じで参加していた。
 風景を想像する。勝手に想像してしまう。写真や資料を集めたりするなかで、物語に引き込まれて勝手に風景を想像させられてしまうことが起こるという点に、この講座の面白さがあったと思う。

 例えば、仙台空襲経験者・佐々木あさ子さんの語りのなかにあった部分。当時11才だった佐々木さんは、疎開先の七北田からひとりで南光台を歩き、東照宮・宮町の方に抜けて二日町まで帰ってきた。

道があったようなんです。私より草が高くなっているところを一人で帰った。そのとき自分の新しい生き方が始まったような気がします。

 宅地造成の年代を調べてみると、旭ヶ丘・南光台住宅地は戦後の高度経済成長期、1950-60年代くらいにできたから、佐々木さんはいまとは全く違う風景を歩いているはず。道なのかどうかもわからない、身長よりも遥かに高い草のなかを歩いて、焼け野原になった自宅周辺にたどり着いた、佐々木さんの辿ったその風景をどうしても想像してしまう。

提供
マルトミ製氷店主 早坂元伸さん

 木町通、北鍛冶町でも毎年七夕飾りがまちを彩っていた。マルトミ製氷現店主の母が写っている写真を見ると、昭和20年前後、街路を覆うような立派な七夕飾りに驚く*2。マルトミ店主は「バスが通っていた」、受講生の菅原さんは「バスの屋根に飾りが引っかかって、そのまま仙台駅まで行ってしまい、その度に返しに戻って来た」と話す。当時のひとたちが見ていた、七夕飾りが空にたなびく木町通というのはどんな風景だったのだろう、と否が応でも想像させられる。その夢のような風景を歩く想像にいざなわれる。当時のこの風景を歩いてみたい。

出典 

木町通の七夕飾り| せんだいメディアテーク

 これは「どこコレ?」に提供された写真。年代不明だが端っこに川村クリーニング店の看板が見える。このお店は木町通小学校に隣接している。かつては木町通小学校近辺でも七夕飾りが空を覆っていたのが分かる。

出典 

仙台街並み写真 2003年・仙台七夕

2003年の春日町の写真にも七夕飾りがある。ここには私が小さい頃よく行っていた篠原菓子店が写っている*3

 私は2009年に仙台に引っ越してきた。木町通小学校から仙台第二中学校へ進学し、当時の木町通や春日町はよく歩いていたが、七夕飾りをみていた記憶がない。経験はしていないが、写真を見たり話を聞いたりして、吹き流しが空高く揺れているイメージを、木町通というまちにつけ加えていく。

提供
木町通学区連合町内会会長 堀江良彦さん

 堀江さんから聞いた話のなかに、木町通に昔あった銭湯の話があった。いまスクリーンに映っているのは堀江さんが持ってきてくれた「月の湯」の入浴券。風の時編集部編『100年前の仙台を歩く仙台地図さんぽ』を参照すると、現在のSENDAI COFFEEの近く(春日町4丁目)にあったことがわかる。戦災にも合わず100年間も続いていた。なくなった時期はわからない。
 堀江さんの話によると「子どもたちの社交場」だったという。堀江さんの家にはお風呂があったが、友達が「月の湯」に行くというので時間を決めて一緒に行っていた。小学2、3年の頃の記憶らしい。現在、昔ながらの銭湯は仙台には4ヶ所しか残っていない*4。小田原の銭湯「喜代乃湯」ののれんには「コミュニティセントウ」と書かれている*5気仙沼の銭湯について調べていたとき、古い文献*6に「どこで喋っても、床屋と銭湯では喋るなヨ」という決まり文句のようなことが書かれていた。どこで聞かれているかわからないぞ、ということらしい。それほどまでにひとが集まり、お喋りの場として機能していた。最近はコロナウイルスの影響で「黙湯」と書かれた貼り紙が貼りだされ、地域のひとが集まってお喋りをするような場所ではないように感じられる。銭湯に行くことが生活の一部だった、その頃の風景を想像させられてしまう。経験がないのに、想像された風景のなかになぜか懐かしさを覚える。

いや、むしろ逆説的に「なくなってしまった(なくなりつつある)」からこそ、ちいさな手がかりをもとに想像する余白が生まれているのだ。想像の発生そのものとまちのイメージの拡充を重要視する視点から考えると、「ない」こと、「なくなっていく」ことは必ずしもネガティヴなことではない。

 

(2)風景の変化

出典 

長年愛され続けて来た北四番丁のスーパーが閉店してしまっていたみたい。 | 仙台つーしん

 北鍛冶町のITOスーパーは小学5、6年のときに仲の良かった友達の家族が経営していた。母同士も繋がっていて、震災のときは「先に入って買って良いよ」と開店前に裏口から入れてもらった。開店を待って並んでいる列を通り過ぎて裏口から先に入店するのは、相当極まりが悪かったのをよく覚えている。母も同じ気持ちだったようで、次からは並んで入った。2021年8月に閉店になった。呼応するかのように10月にツルハドラッグ通町店が開店。まさに地域の老舗商店が消えて、経営戦略に則って大型チェーンストアが増殖する風景*7だが、自分はあまり悲しくはない。
 その場所に根付いていた商売や歴史ある建物、風俗がどんどんなくなっていくのは、特にその地域で生活しているひとにとっては深刻な事だと思う。ただ、私はむしろ、新しいものと古いものが隣り合って、混ざり合い、いま正に風景が生まれている、現在進行形で風景が変化していく、ということに(遠くから俯瞰しているのではなく)すぐそばで立ち会い面白がってしまうような感覚がある。

2022年、北鍛冶町に現れたしめじハウス
(1Fに「妖精の家」という雑貨屋が入っている)

 その目線に立つと、仙台空襲の記憶や偉人の人生だけではなく、それと同じように、とるに足らない歴史的価値に乏しいものも大切に思えてくる。もっと些細な浮かんでは消えていく記憶、例えばさっき熊谷さん*8が話していたコーヒーが勝手にドンドン出てくる自動販売機の話などを面白がってしまう。「あそこ閉店するんだって」「あの定食屋にはじめて入ったんだけど」からはじまる母との雑談をかけがえのないものとして楽しんでいる自分がいる。「自分の経験など大したことない」ではなく、些細に思えることにこそ目を向けている。
 クリエイターズのなかで、受講生のひとり、菅原さんが誰に求められたわけでもないのに記憶を頼りに作り上げてきた北鍛冶町の地図(かつてあった商店とそれにまつわる記憶がびっしり書き込まれている)はほんとうに面白かった。「これはいつのことなのか、年代が書いてあるともっと良かった」と言っているひともいたが、それはすでに「残そうとする」「価値づけをする」視点だと思う。関さんという受講生は事あるごとに「そういえば…」と思い出話を語る。木町通小に通っていたころ、細横丁(晩翠通り)にあった旅館の前で犬に追いかけられた、とか。彼女の話を聞くことが、この講座に出る大きな楽しみだった。

受講生・菅原さんがいつの間にか書き上げてしまった地図
(「木町通クリエイターズ」がクリエイトしたものとしては一番おもしろいと思う)

 年表のなかに位置づけることは難しいかもしれない。客観的に価値のある情報は抜け落ちているかもしれない。しかし、ひとが誰に頼まれたのでもないのに、思わず思い出してしまう、語ってしまう、(手書き地図を)つくってしまう、というどうしようもない記憶の湧き出しこそが、私には大切に思える。
 いつ・どこにだって個人的な風景、そのひとが居なくなったら消えてしまうような記憶が、変幻し減衰しながらも(誰かに必要とされなくても)ただ存在している。それはまだ何らかの価値を持たされるまえの、軽薄ななにか、である。そのなんでもない断片に立ち止まって、時間をかけて見つめることが、まちに対するイメージや親密度を増幅させるのではないだろうか。

 

発表後のやりとり

パネラー・熊谷さんからの3点のコメント

春日町の銭湯は同級生の家かも・・・
②新しいもののほうに興味がある、というのは若いときは同じ感覚だった。しかし、40代を超えると古いものにたいする感覚が急にあふれてくる。若いときはなぜ残せなかったのかと・・・
③ちなみにITOスーパーには私は並んで買いました。

 

高倉からの返答

 ②について。私は「新しいものに興味がある」のではなく、古いもの・新しいものの対立を超えて、風景の変化や共存を面白がっているだけ。古いものがなくなってしまう、というかなしみも、新しいものができて便利になった、という喜びもない。
 どちらかといえば周りの若者に比べれば古いものが好きでこの講座に参加したところがあるが、それでもノスタルジックな感傷に流されることなく風景を見ることができれば、と思っている。

 

「物言う市民になることが大切!」と物申す聴講者に対して

**:東京での街歩きに参加したことがあるのですが、古い建物がけっこう残っている。でも仙台の場合は、行政も民間も次々と壊していくということがあると思います。宮城県庁がいい例です。そして新しいものに建て替えていく。そういう意味では、「物言う市民」がこれからはとても大切になるのではないでしょうか。小さなものを地道に歩いて探していくというのも必要ではないでしょうか。

(他パネラーが順に応答)

渋谷さん:最後に高倉さんからも一言おねがいします。

高倉:みなさんのお話を聞いていて、やはり僕は徹底的に「物言わぬ市民」であろう、単なる「散歩者」、そして「聞き手」であり続けよう、と心に固く誓いました。ただ、段々と他人事ではなくなっていく、というのはもちろんあって、それはそれで良いとも思っています。風の人であっても、よそ者ではいられなくなるような瞬間があります。
この間、友人と水戸のまちを久しぶりに歩く機会があったのですが、フレッシュジュースをつくっている老舗の果物屋さん*9があって、ジュースは安くて本当に美味しいのにお客さんがいつも全然いない。お店のおばあちゃんに話しかけたら「後を継ぐ人がいない。娘夫婦も最初は手伝ってくれていたのだけどお金にならないから別の商売をはじめた。わたしたち夫婦ももう年だし、店を閉めようかと思っている」と話されて、その話を聞いてしまった途端、なんだか他人事ではなくなって寂しくて、それがずっと残っています。そうやってふと話しかけてしまったのはこの講座に参加したからかもしれませんし、僕はまだ「物言わぬ市民」でありたいのですが、もしかしたらこういう経験から少しずつ「物言う市民」に変わっていくのかもしれません。

 

 

 

 

*1:講師の西大立目祥子さんは初回の講話で「まちは記憶の器。まちあるきや聞き取りはその記憶を見つけていくような作業」というようなことを言っていたが、言うまでもなくこのクリエイターズという講座じたいがまさにあたらしくその器に記憶を注いで、まちと親密になっていく時間である。つまり、単に「(既にある)記憶の発見」にとどまらず、まちのことを考えて、意識しながら歩くだけで、それがまた自然と記憶になっていく、というパフォーマティヴな面もあり、「まちと付き合う」視点から考えるとむしろそっちが重要だったと思う。

*2:ただ、北鍛冶町においては完全に七夕飾りがなくなったわけではない。現在も北鍛冶町商店街や地元住民の意思で小規模だが続いている。

出典
北鍛冶町商興会 Facebook

*3:

提供
西大立目祥子さん

小学6年生くらいから中学時代まで、メディアテークに行くときや公園で遊んだときなどに寄っていた。ここでおばちゃんに声をかけて「棒かる(カルメ焼きをひとくち大に切ってプラスティックの棒に刺したもの)」をはじめて食べたのをよく覚えている。

高校にあがってからはすっかり行かなくなり、大学で仙台を出てから戻ってみるといつの間にかなくなっていた。西大立目さんの『寄り道・道草仙台まち歩き』(河北新報出版センター)を読むと、2007〜2008年の篠原菓子店が載っている。

「母が始めたんだけど、二代目のわたしが七十歳だもんねえ」

西大立目さんが篠原菓子店を訪れたのは僕が小学2〜3年生の頃だから、まだ仙台に越してきてもいない。その当時で、既に店主の年齢は七十歳だったらしい。僕が篠原菓子店に行き始めた2011年〜2013年は七十三歳〜七十五歳。純粋に考えて、後継者もなく年齢的な限界が来て店を閉めたのだろうが、実際は調べてみないと分からない。恐らく2014年〜2017年のあいだに閉店、いまは建物も解体され、駐車場(三井のリパーク仙台春日町第5)になっている。

*4:中江の「花の湯」、小田原の「喜代乃湯」、国分町の「駒の湯」、長町の「鶴の湯」の4店舗。

*5:

出典

喜代乃湯(仙台市の銭湯)に行った | 日記 - [ありの木]

ちなみに、「喜代乃湯」についてネットで読める資料は以下。

 

*6:気仙沼町誌』1953年発行。気仙沼に生まれ、そして消えていった銭湯について数ページまとめた節があり、都市部と同じように明治初年〜昭和初期頃は数十軒の湯屋が南町・魚町・八日町・新町など至るところにあったことが分かる。特に漁から帰ってきた海の人間たちの癒しだったと。

現在、気仙沼の銭湯は「友の湯」「鶴亀の湯」の二店のみ。鶴亀の湯は、もともと魚町にあった「亀の湯」(1886年創業)が2017年土地区画整理事業(復興事業)に基づき立ち退きを強いられたあと、地元団体の尽力のもと魚市場前のトレーラーハウスに復活を遂げた店舗。太田入口の旧亀の湯跡には現在コインランドリーだけが残されている。f:id:taratara_miztak:20230409033610j:image

*7:ここ5年間くらいの仙台市街の風景の連続的変化といえば、僕にとっては「ツルハドラッグ」の増殖である(次点は「コインランドリーピエロ」の増殖)。僕の生活圏内だけでも、通町店、支倉店、二日町店、台原店、北仙台店…とどんどん増えている。すこし調べると「ドミナント戦略」ということばが出てくる。

当社グループの中核をなすドラッグストア事業は、地域集中出店によるシェア拡大を早期に図るドミナント戦略を推進し、お客さまにとって、いつも身近にあるという「安心」と「信頼」のドラッグストアを目指しています。

(事業内容|株式会社ツルハホールディングス)

薬剤を基盤に、地域に根ざして良い商品、サービスをおとどけする」というのがツルハのモットー。それは「ドミナント戦略」にもあらわれています。「ドミナント戦略」は、一言で言えば、1つの地域に複数店舗出店する戦略です。それによって1店舗の売り上げが下がるかもしれませんが、地域で見ると、幅広いエリアを複数店舗がカバーでき、よりお客さまの身近な存在でいることができます。

(ツルハグループ総合採用サイト 3つのポイント)

 

出典

ツルハグループ総合採用サイト 3つのポイント

詳しくはもう少し調べないとわからないが、「ツルハ村」のようなものをつくることで同業他社が入り込む隙間を無くしてしまう出店戦略のことらしい。結果的に、コンビニのような感覚でツルハドラッグが点在する風景が出来上がっている。

台原住宅地の隙間に覗くツルハの看板

*8:元祖仙台駄菓子本舗・熊谷屋十代店主の熊谷典博さん。シンポジウムでは、北鍛冶町の移り変わり、そこにかつてあった店舗などについて、地元住民の視点からお話された。シンポジウム終了後も木町通の住宅地図を見せてくださり、僕の知らないことをたくさん丁寧に教えてくださった。

*9:南町三丁目にある「銚子屋果実店」。

声をかけるとその場で果物を搾ってくれる。筑波大に居たころ水戸に彼女が住んでいたので、会いに行くたびに寄ってジュースを買っていた。夏場に茨城大あたりから汗をダラダラ垂らしながら歩いてからここで飲む搾りたての梨ジュースが最高に美味かった。