波頭

束の間、淡く残ることについて

「好き」と言葉にする、その先 - メモ

「好き、という言葉についてどーたらこーたら言ってたけどさ、誰かを好き、とか、何かが好き、とか、そういうのはすごく感覚的なことでしょ?」

「もちろんそうだ。だから、僕は感覚を否定したいわけじゃないよ」

「じゃあ何を否定したいのさ」

「いや、否定したいというか…その感覚の、もっと内側の方に分け入っていきたいわけ。好き、という言語化で満足せずにね」

「言っていることがよくわからないけど」

「まず、思うに、何かを〈好き〉というのは、〈よく分からないけど通り過ぎることができない〉ということなんじゃないかな、と」

「通り過ぎることができない?」

「例えば、僕は最近浦上想起とかを聴いてるんだけど」

「『芸術と治療』の人か」

「そう。彼の音楽を聴いて、別の音楽へと移行するんだけど、また浦上想起に戻ってくる。別に、他の音楽を聴き続けていてもいいんだけど、なぜか、浦上想起を無視し続けるわけにはいかない。必ず戻ってきて、そこにある程度立ち止まってしまう」

「立ち止まってしまう、というのは、聴いて、口ずさんで、歌詞を読んで、メロディやコードを追って、リズムに乗って…という音楽的行為の地点に留まる、みたいなことかな」

「そんな感じ。別に浦上想起を通り過ぎて長谷川白紙なり米津玄師なりへと向かっても勿論良いはずだけど、この〈通り過ぎる〉ということが極めて難しい。僕にとって、何かを好きである、というのはこういうことかな」

「なるほど。それで、この〈通り過ぎることができない〉ということがまるで、説明つかない、と」

「うん。なぜか、なんだよね。なぜか通り過ぎることができない。〈好き〉という感覚は説明しづらいんだけど、その説明のしづらさの出処はここなのかな」

「でもさっき『感覚の内側に分け入りたい』って言っていたよね?それはどのようにして可能なの?」

「繰り返すようだけど、〈好き〉という言葉は〈何故かわからないけど通り過ぎることができない〉ということの言い替えなんだよ。人はそれを『いや、そうじゃなくて、もっと純粋に、感覚的に〈好き〉なんだ』とトートロジカルに説明するかもしれないけど、それは多分、感覚の〈わからなさ〉〈説明しづらさ〉を〈好き〉という言葉に押し込めて満足するための説明に過ぎないと思う」

「手厳しいね。〈好き〉という言語化自体が一種の自己満足だと」

「ある面ではね。そんでもってその自己満足によって、〈何故かわからないけど通り過ぎることができない〉感覚の〈わからなさ〉は当然無視される。というか、隠蔽されていくわけ。それがまず、怖い。その感覚の内実はむしろ〈わからなさ〉にあると言ってもいいのに、〈好き〉という言葉への落着はその〈わからなさ〉を隠蔽する」

「怖いかなぁ」

「むしろ僕は〈わからなさ〉とか〈言葉にできなさ〉の方を主題化したいんだよ。〈好き〉という言葉で満足するんじゃなくて、もっと貪欲に感覚を追求したいの」

「さっきの質問に戻るけどさ、感覚を追求する、というのは、結局、その感覚を説明することなの?感覚の〈わからない〉ところを〈わかる〉に変えたいってこと?でも、〈好き〉という感覚を〈何故かわからないけど通り過ぎることができない〉と定義づけている時点でそれは不可能なんじゃないですか」

「違う。僕は感覚を説明したいんじゃなくて、〈わからなさ〉自体を説明したい。その感覚を、こういう感覚だ、というふうに説明したいんじゃなくて、その説明のしづらさ自体をもっと言葉で追い詰めたいのかな」

「君の言葉を借りて、そういう風に〈わからなさ〉の方へ多面的に掘り進めていくことを〈感覚の内実に分け入る〉ことだと言うなら、これはこういう感覚だ、と〈わかる〉に塗り替えてその都度満足していくことは〈感覚の外面をなぞりあげる〉ことなのかも」

「まさに。その2つの態度はちゃんと区別したほうがいい」

「でもまだよくわからないな。〈わからなさ〉を説明するってどういうことなのか。〈感覚の内側へ分け入る〉も実感が湧かない」

「説明する、という語彙がもう既に違うかも。輪郭づける?」

「あんま変わんないよ」

「主題化する×追求する、って感じかなぁ。迫る、が近いか。その〈わからなさ〉を認めて、ちゃんと自覚して…そうすれば〈好き〉とか〈大切〉とかだと物足りなさが残るから、別の言葉を探さずにはいられなくなる」

「結局、他の言葉で感覚を説明し直すことになるのね」

「でも、それは付随的というか、結果的に〈他の言葉が探され、選ばれる〉ということに過ぎない。そして、〈わからなさ〉を主題化しているなら、別の言葉が見つかったとしてもそれで説明し尽くしたことにはならないよ。固定したり満足したりしない、ということに態度変更の本質があるんだから。だけど同時に、そうやって具に言葉を選んだり捨てたりする、そうせざるを得なくなっていく過程こそが、〈わからなさ〉に迫ることなんだと思う」

「無窮運動だ。よくそんな辛いこと続けられるね。『常に物事を新しく感じ取るために自分を変え続けたいんだ』とか、そういう自己啓発チックなことを言いたいのかい」

「いや、というより、完結=固定化された世界観が怖くなったんだよね。世界が認識によって固化していくことが。あとは、失われていくもの、見えなくなっていくものへの憧憬とか。自己啓発というよりももっと感覚的な動機だと思う」

「それでまず最初に〈言語化による自己規定〉に着目するところが不思議だよ。そういえば前、認識と言語化について話してたけど。関係してるんじゃない?」

「今回の話は〈言語化〉についての議論を下地として始まったようなもんでしょう。ああ、確かに、その話もしたいな」

「いや、いいよ。それは今度で。それよりさ、僕は別に〈感覚の外面をなぞりあげる〉だけでも良いと思うね。好きなもんには好きって言えばいいじゃない」

「もちろん、それでも良いと思うよ。僕だって好きって言ってそれで満足するときもあるし。まぁ、そこはムラがあるよね」

「そういうもんか」