波頭

束の間、淡く残ることについて

「読む経験」の核心を書く - フリーペーパー『「曲線」の書棚から』という場所について

仙台市青葉区八幡にある「曲線」という本屋さんと勝手にコラボレーションして、『「曲線」の書棚から』というフリーペーパーを作っている。2021年2月に一作目を作って、8月に二作目を作った。今はとりあえず、ごく僅かの部数だけを刷って「曲線」さんのフリーペーパーコーナーに置かせていただいている*1。今回はこのフリーペーパーについて、ここでは何が書かれていて、何が書かれていないのか、ということをざっくりと書いてみたい。

 

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内容としては、「曲線」さんの本棚に置いてある本の中から一冊選び、その本についてA5版クラフトペーパー表裏におさまる範囲で鑑賞文のようなものを書く、というものだ。一作目、二作目は歌集を一冊ずつチョイスして、そこから更に一首を選び、その歌について書いてみた。これからは詩集、小説、写真集、CDなどからも選んでいきたいと思っている。

あまり「こういう人に読んでもらいたい!」という強い希望は無いが、一応漠然と、「そのジャンルに興味があるんだけどなんとなく一歩足を踏み出せない」「その本、曲線に来るたびに目についてはいたんだけど読んだことない」みたいな人に向けて書いている。曲線に来ている人が興味を広げて、新しい本を手に取るきっかけになってくれたら、本当に嬉しい。

 

 

 

さっきは便宜上「鑑賞文のようなもの」と一言で書いてしまったが、ここでやろうとしていることはただの「鑑賞」とも、例えば「批評」のようなものとも殆ど違う気がしている*2

 

一作目は鈴木晴香の『夜にあやまってくれ』を取り上げた。その文章の最後の方で「読むということは、まず何よりも先に、そのときの一回性の経験だ」というようなことを書いた。僕は『「曲線」の書棚から』という場所で、あるものを読んだときの自分の「経験」の核心的なところに拘って書いてみようとしている。

 

一作目では、主に、鈴木さんの歌の魔法のような力によって「くらくら」してしまっている自分の経験について掘り下げた。僕は、その「くらくら」の内実と、そんな風に僕を揺さぶるこの歌の内部の出来事をかき分けてみた。この歌と僕との間で、こんなことが起きている、というような書き方をしていたと思う。歌のなかのこういう表現によって、こんなことが起きている、ということ。

ここでは、例えば、作者がどういう人物で、この歌集は全体としてどういう作品か、ということは何一つ書いていない。この歌のここが良い、ここが良くない、この歌はこんなふうにも解釈できる、他の歌と関連させるとこんなことが言える、みたいな書き方もしていない。また、この歌によってこういう過去を想起した、という結びつけもない。しかし、ここでは僕が今回そういう書き方ができなかった、というだけで、そういう書き方を「するべきではない」と言いたいわけではない。

 

二作目は、一作目とは全然違うことを書いている。一作目のように、選んだ歌の内部に分け入っていくようなことはせず、その歌によって瘡蓋を剥がされてしまった自分の傷口について書くことを徹底した。いわば、その歌と共振することで自分の感性が抉られてゆく、その経験について書いている。

その経験を書く上で、僕は一作目のように「その歌のうちで起こっていること」を掘り下げることはしていない。ある意味で、その歌から一旦離れている。僕は今回そうせざるを得なかった。

 

一作目と二作目の書き方が全然違ってしまったのは、鈴木晴香の短歌と中澤系の短歌、それぞれを読む「経験」が全く別様だったからだ。取り上げた二つの短歌に対して全く別の経験をしているのだから、自分の「経験」の核心について書くことを前提にしたとき、同じ書き方ができるはずがない。それが自然だと思う。

例えば、この作品はどのように解釈ができるか、この作者はどういう人物でどういうことを思って書いているか、この作品はどういうところが良いか悪いか、というようなそれぞれの立ち位置に「作品についての語り」を予め紐付けた途端、語りが自分の「読む経験」から段々と乖離していってしまうことがある。僕はこの場所で、書き方を一つの立ち位置によって統一することを意識せず、「(それを)読む」という経験の核心を求めてブレながら書く、ということをしてみたい*3

 

「曲線に来た人が新しい本を手に取るきっかけになれば良い」と上で書いたが、同時に、既にある程度読んでいて、且つ「でも、〈読む〉ってこういうことでいいのかしら?」「(歌集って)どういう風に読めば良いの?」と呟いてしまっている人に、僕の恥ずかしい「実践」を見てもらえれば、とも思っている。

 

 

 

 

*1:今作か次回作あたりから他の場所でも置かせてもらえるよう働きかけてみる予定。因みにある程度溜まってきたら全部繋げてZINEにしてみようかなと考えております。

*2:もちろん「鑑賞」や「批評」のようなものである場合もありうるだろうが、要するに、そのように一語で表せるような一つの「立ち位置」は特に意識されていない、ということだ。

*3:もちろん、その表現そのものにちゃんと迫っていくためには(あまりにも一面的すぎるという意味で)全く不十分な書き方だということは自覚しなければならない。表現に迫るためには、その表現を様々な方向から照らし出してみなければならない。「経験」の外側に完全に出てしまうことも必要になるだろう。

「表現」というのは、作者の「思い」や読者の「読み」という両極を含みこんだ、無限に意味が湧出してくる「源泉」、いわば可能性の渦巻く「カオス」である。そのカオスを指し示すためには、一義的な説明や解釈を超えた「存在性」、「創造性」そのものの方ににじり寄っていかなければならない。説明的に言語化することが不可能であるような地点に言葉を携えて近づいてゆくこと。そのようにして間接的にカオスを指し示すこと。

「読む」経験から出発しようとする今シリーズは、その地点を蜃気楼のようなものとして覗くことはできても、場所を特定したり、それを直視したりはできない。「表現」の無限の可能性そのものを言語で追い詰めるためには、やはり別の角度が必要とされるはずだろう。(以上のことは、主に『「表現」についての覚書』で展開した「表現」についての僕の考えを下地にしている。)