波頭

束の間、淡く残ることについて

本屋と時間 - 『仙台本屋時間』について(と今の心境をすこし)


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火星の庭」店主・前野久美子さん主導で作られたZINE『仙台本屋時間』に、僕も少しだけ関わっていた。打ち合わせへの参加、前野さん担当部分の取材参加、取材メモ作成(音声データの書き起こし)、書店基本情報リスト作成、掲載許可取り、コラム「本とひと。みる、あるく。」の企画・文献調査・執筆、文学碑等の写真撮影、文章校正等いろいろな仕事をさせてもらい、地図や本誌レイアウト、内容に至るまでまんべんなく首をつっこんだ。しかし、一番大きな仕事は、前野さんから溢れてくる面白いアイデアの洪水を、受け止めて、整理して、打ち合わせで言語化し直したり、企画全体との兼ね合いを検討したりする、一連のアシスタント業務だったと思う。あとは、前野さんが言っていたことを覚えておく、というのも大きな仕事だった(笑)。

 

 

 

『仙台本屋時間』の特に面白いところは、単に「本屋」をまとめているだけではないというところだ。巻末に挟まっている地図を開くと、仙台中心部に犇めき合う「本に関する場所」を一望することができる。それが点在する「本屋」だけを並べる地図だったら、それはよくある「街の本屋ガイド」の巻頭地図に過ぎない。重要なのは、「本屋」と同時に、著名な作家の関連する文学碑・詩碑・菩提寺文化施設なども浮かび上がってくることだと思う。「本屋」という一つの店舗形態に絞るのではなくて、「本」を中心とした文化全体を主題化し、それがどれくらい街を覆っているのかを空間的に示しているところに、この本の一つの特徴がある。

 

また、本の「時間」と一言で言っても、それも極めて重層的だ。本を読んでいる時間、本屋で棚を眺めている時間、本について誰かと話している時間、日常のなかで本のことを考えている時間、さらに言えば、本屋から出て街を歩いている時間も、本の「時間」である。『仙台本屋時間』はこのように本によって彩られた「時間」の層を感じることができる一冊だと思う。

 

『仙台本屋時間』は、空間・時間的に立体感がある。

 

本を探す・買うために本屋に行くならば、品揃えの良い本屋こそが至上だということになるだろう。おしゃれな本屋、空間的に心地よい本屋にこだわるならば、駅前の大きな本屋や古くて雑然とした本屋は切り捨てられてしまうかもしれない。そもそも、本に触れることができる場所を「本屋(本を買う場所)」だけに絞るなら、図書館や文学館などは視野に入らなくなる。

しかし、逆に、本が彩る時間の層、本との関わり方の層に喜びを見出すならば、むしろ「本のある場所」「本が関わる場所」の多様性にこそ目が行くはずだ。本を読むことも買うことも選ぶことも考えることも貪欲に求める人、「本がある」ということをまるごと立体的に楽しめる人、そういう人に最も『仙台本屋時間』は魅力的に映るだろう。

(2021年6月)

 

 

  *

 

 

さて、ここからはもう少し個人的な話。

「本屋」と「時間」ということに関連して、まず、僕がちょうど一年くらい前に考えていたことを当時のツイートから引用してみたい。

 

火星の庭の前野さんに「僕は、誰かの〈逃げ場〉になるような場所を創りたい。逃げ場と言うとネガティヴに聞こえるんだけど、要するに、家庭や学校や職場で抑圧せざるを得なかったものを解放する場所、モヤモヤしたものや苦しいものを少しずつ逃がしていけるような場所を創りたいんです」と、話した。

 

※逃げ場というのは、その人の逃げ場というよりは、その人の内面に塞ぎ込まれてしまった「何らか」の逃げ場という方に近いか。その人の実存自体が場所や行為に逃げる訳では無い。

 

逃げ場というか、「外部」。誰かの「外部」になること、誰かが「外部」に気付くきっかけになること。

 

僕にとって、そういう場所は、本であり、本屋であり、もっと広く本のある風景でもあった。あるいはアートであったり、アートスペース、文学館や美術館のような文化的な公共施設であったりした。日常的な何らかの抑圧と憂鬱、塞ぎ込んだ思考を解きほぐしてくれる「救い」のような場所と時間。

 

26日のやわつちオンラインサロン(@zoom)で関本さんの話を聞きながら少しずつ整理した。仕事として古本屋に興味を持った頃から「場所を創りたい」というのは考えていたことではあったけど、関本さんの話で弾かれたように言語化が出来るようになった。大学入学当初から持っていた意識とも繋がっている。

 

誰かが「表現したいと思っていること」、その衝迫のようなものが結実するプロセスの尊さ。関本さんがやっていることは、そのプロセスをなるべく潰さないこと、誰かの「表現」のために出来ることをすること、欲求の具現化のための〈媒体としての場〉になること、それによって「安心」を産むことだ。

 

僕にとっては、その欲求がたとえば「外に出る」ということでも「誰かと話したい」ということでもなんでも良い。音楽を作るとか絵を描くという芸術的な表現行為への欲求だけじゃなくて、もっと些細な、しかし、日常において充実していない何らかの欲求。その欲求を禁圧し、自ら疎外するのではなく、日常の中で慢性的に抱えている水面下の息苦しさから息継ぎをする過程として、欲求を一つずつ放っていく場所を創りたい。〈閉鎖性〉に穴を開けていく、媒介になるような場。それが僕にとってたまたま古本屋の空間・時間だったから、僕は古本屋の空間作りと回し方に興味を持ったのだった。

 

しかし、当たり前だけど、そういう〈場を創る〉という願いを実現する上で、それが古本屋でなければならない理由はない。ただ、僕が個人的に古本屋(巡り)に救われた瞬間があって、そこに最も「問い」と「実践」を駆動するような実感が詰まっているから、偶然選ばれているに過ぎない。端的に、偶然。

 

あと、重要なのは、結局(既に何度も言っている通り)〈媒介〉にしかなれない、ということ。前野さんも言っていたけど、その欲求を具体的に解き放とうとすること、そこに気付いて自ら足を運ぶこと、少しずつ自分をひらいていくこと、これは場所(僕)が出来ることではない。僕は主体になることはできない。

 

最終的には気付いてもらうしかないのだ。その人に「主体」になってもらうしかない。僕は、「救われる」という経験に気付いてもらう〈場〉を創ることまでしかできなくて、「救われる」という経験自体を創ること、本人を直接「救う」ことは決してできない。「救い」を与える人にはなれない。

 

このようなことをずっと考えていた。周りに話すと賛否両論あって、色々と考えるヒントをもらうことができた。

 

最後に少しだけ、今はどのように考えているかを書こうと思う。

まず、第一に、そういった様々な欲求が交差する場所として「古本屋」を(積極的に)設定するのは少し無理があったと思っている。ツイートのなかで「僕にとっては偶然古本屋が選ばれたに過ぎない」と自分で書いてあるとおり、僕の欲求や煩悶が「そのとき」「たまたま」古本屋で解消されたというだけで、多くの人のもやもやしたものや湧き出ていくものが「(古)本屋」という場所で結実するかどうかは怪しく、また、もしそういう欲求の交差点として「(古)本屋」を作ろうとしたら運営面で過大な負荷がかかることは分かりきっている。もし、そういう場所を作るのであれば、「古本屋」という形態に限定せず、別の形態を視野に入れたほうが良い(物販だけに絞ると、その「物」でしか切欠を生みだせなくなる。例えば飲食などを混ぜると、半強制的に滞在時間を生み出せる、等)。

第二に、現時点での僕の体力と気力から考えて、そういう風に場所を作って回していくのは難しいのではないか、ということ。もちろんその前に能力的な問題だってあるけど、それも含めて、単純にパワーが足りてないのでは、という危機感がある。今は生活の流れについていくということにいっぱいいっぱいで、何かをやっていくぞ、人と積極的に関わって社会に自分を放り込んでいくぞ、とは思えない。

 

そもそも、僕は本屋の時間にどのように救われていたのか、あまりよく思い出せなくなってしまった。もちろん今でも(かなり回数が減ったが)本屋には行くし、本も読むけど、読書会くらいしか楽しいと思えないし、正直今は救われているのかどうかもよく分からない。いま仕事で進んでいる新規店舗の準備も、全く気持ちが乗らず、自分でも驚いている。本当に自分は「場所」が作りたいと思っているのか、正直もう分からない。

 

「息継ぎ」をしたいと思っている。「日常の中で慢性的に抱えている水面下の息苦しさから息継ぎをする過程」が必要だ、とツイートで書いていたけど、僕はいま、息継ぎすることを忘れている気がする。日常の水流に身を削がれて、鱗が剥がれ落ちていくのを、ただ耐えている。こんな風に「何かを希望する」ことすら忘れているのは危ない。いま一年前のツイートに対して「なんでそんな力んでるの」「なに熱っぽく語ってるの」と冷たく笑ってしまえるのが悲しい。

 

『仙台本屋時間』作りに関われたことは僕にとって、本当に大きな経験だったと思う。ただ、いま僕は本が彩る時間の流れから大きく乖離しているから、『仙台本屋時間』がなんだかすごく遠くにある本のようにも思える。日常は(古本屋で働いている時間も含めて)あの「本の時間」からどんどん離れている気がする。いまはただ、「本の時間」に対する遠い憧れのようなものだけがある。